今川氏真は、小田原の北条氏とはかり関東の塩も止めてしまいました。さらに、越後の上杉謙信にも塩止めを依頼しましたが、謙信はこれを断り甲斐に塩を送ったのです。
「塩の道」と言うと、越後から甲斐へ続く道(千国街道など)が一般的ですが、このように駿河から甲斐へ通じる塩の道もあったのです。もちろん塩だけでなく、あらゆる物資の運搬に使われました。
道は3本あり、甲府−市川大門−興津のルートを西往還。甲府−御坂峠−山中湖−籠坂峠−御殿場のルートを東往還。そして甲府から左右口(うばぐち)峠を越え精進潮−上井出−富士宮−富士と続く道を中道往還(なかみちおうかん)と呼びました。この中道往還を利用して、浮島沼のウナギや田子浦でとったマグロなどが甲斐へ運ばれました。甲斐の人々にとってこれらの道は海の幸を手に入れる重要な道だったのです。しかし、一方では重要な軍用通路でもあり、信玄はこの3本の道を巧みに利用して駿河に侵入しました。そして長男義信の死から1年後の永禄11年(1568)、信玄はついに駿河を占領し、海を手に入れたのです。その後、富士郡の占領状態は天正10年(1582)の武田氏の滅亡まで続きました。
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( 写真説明 ) 越後からの塩の道(妙高高原付近)