◆善徳寺の三将会盟(その2)
今川氏と北条氏は、それまで武田氏を共通の敵としていましたが、今川義元の代になると、にわかに方針を変え武田氏と結び、義元は信玄の姉を妻としました。これを怒った北条氏は天文6年(1537)富士郡に侵入し、周辺の城とともに善徳寺も焼いてしまったのです。
2年後、義元は北条氏を破り、富士川以東の領地を取り返しています。この時に善徳寺は再建されて、以前にも増した大伽藍(だいがらん)となりました。
天文23年(1554)、北条氏康は、織田信長との共同作戦で大軍を率いて富士郡に進出してきました。義元は義弟の信玄に助けを求め、信玄はすぐに甲府を出発し柳島に本陣を置き、鈴川砂山に陣を張る北条氏康と潤井川を挟んで小ぜり合いを繰り返しました。
その時、今川氏の軍師でもある臨済寺の大原雪斎(だいげんせっさい)の働きかけで、武田・今川・北条三氏の講和が3月3日、善徳寺において成立しました。これが世にいう善徳寺の三将会盟です。
それから14年余り、この地には平和が続きます。しかし、永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が戦死してからは、この同盟のバランスも崩れ、信玄の侵略によって、永禄12年(1569)2月、ついに善徳寺は焼かれてしまいました。その後の再建運動もむなしく、今は焼跡の歴代の墓碑だけが寂しく残っています。
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( 写真説明 ) 善徳寺まつり