語ってくれた人 勇吉の孫にあたる 高橋しのさん(75歳) 大野町
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昔、沼川から浮島にかけての一帯は沼地でした。ひとたび大雨が降ると、田は湖のようになり、附近の人々は大変悩まされました。
大野新田に住む高橋勇吉は、この沼地に天文堀(てんもんぼり)という排水路を造ろう−と考えたのです。
大雨のたびに飢饉(ききん)
江戸時代も終わりころ、天保7年(1836年)全国に大飢饉が起りました。
元吉原でも秋の大雨で大野(おおの)・桧(ひのき)・田中(たなか)の三新田の稲は全滅(ぜんめつ)。食べ物もなく死人も出たほどです。
この時、勇吉32歳。三新田に排水堀を造ることを考え、村人や役人に相談したが、相手にされませんでした。勇吉は、ひまを作っては土手にのぽり、三新田をながめ排水堀の方法を、夜ごと日ごと考えたのです。
村人の中には、勇吉をきちがい扱いする人もいました。
牢屋に入れられ許可が
9年の歳月がたち、またも大飢饉(ききん)。
勇吉は江戸に向い、工事の願いを直接奉行所に出そうとしたところ、役人に取りおさえられ、牢屋(ろうや)に入れられてしまったのです。当時、村人が奉行所に直接願い出ることは禁止されていました。何回となく取調べられた結果、やっと勇吉の考えがわかって、工事の許可が出ました。
勇吉は、自分の田や畑、財産をほとんど売払い、排水堀の資金に充て、嘉永5年(1852年)三新田に排水堀を完成させます。
勇吉が三新田に排水堀を造ろうと考えだした時から、実に15年の歳月がかかったのです。人々は、この堀を天文堀と名付けました。
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( 写真説明 ) 高橋勇吉の碑