西富士道路と田子浦臨港線建設に伴い、昭和53年5月から2年4か月の歳月をかけた西富士道路埋蔵文化財発掘調査は、伝法A地区からF地区までの6地区、約5万平方メートルの現地調査を終わりました。
発掘調査の結果、伝法A地区とした東平遺跡からは、奈良時代のころの住居址や倉庫などが多数発見され、大規模な集落であったことが確認されました。
伝法F地区とした横沢古墳からは、金網製の鈴や馬の道具などが、B地区からは室町時代から江戸時代の初めにかけての墓と考えられる土拡(どこう)群が発見されました。
これらは、いずれも中世・あるいは近世の生活様式を知るうえで貴重な資料となり、現在、西富士道路埋蔵文化財発掘調査事務所では、整理検討作業を進めると同時に、これらの調査をまとめた報告書を来年の4月に発行する予定です。
■A地区 県内最大の住居群
今回の発掘調査のなかでも特に中心となったのは、伝法A地区とした東平遺跡の調査解明であり、1年9か月にわたって行われました。
その結果、奈良から平安時代始めのころの住居址130軒と、倉庫あるいは住居と思われる掘立柱建造物址53棟を発見。
昭和40年、東名高速道路建設当時の調査と合わせると、竪穴住居址250軒、掘立柱建造物址61棟となり、これはこの時代のものとしては、県内でもまれな大集落となることがわかりました。
住居址の中からは、「須恵器(すえき)」と呼ばれる灰色の土器や「土師器(はじき)」と呼ばれる素焼きの土器、鉄製の小刀、鎌、やじり、糸車などが多く出土しています。
これら出土品の中でも特に注目されるのは、奈良時代の役人が使っていたと思われる帯金具が発見されたことです。この帯金具は、普通の集落では出土しないため、東平遺跡が他の集落とは異なり、律令体制のなかでの地方の中心的役割を果していた集落と考えられます。
■B地区 六文銭で三途の川を
伝法B地区からは、室町時代から江戸時代の初めにかけての墓と考えられる土拡が約400基と、溝状遺構など10本を発見。
土拡十数基の中からは人骨に伴い天目茶碗(てんもくちゃわん)、火打ち石、小柄(こづか)、古銭などが出土しています。
これらのことから、この地方の人々が死者の埋葬の際に、これらのものをそなえる風習がすでに始まっていたことがわかります。
さらに土拡の中から、中国銭や寛永通宝などの六文銭が発見されたことは、当時から三途の川を渡るには六文銭が必要−といわれていたことを物語っています。
しかし、これらの出土品が限られた土拡から発見されたことは、生前の身分を意味していたと考えられます。
■D・F地区 地元有力者の古墳?
伝法F地点とした横沢古墳は、6世紀の後半ごろ造られた直径16メートルの円墳で、当時に近い状態で残っていました。
自然の石を用いた横穴式石室で、この形態の古墳としては大型のものです。
古墳の中から人骨・馬具・鈴・直刀(ちょくとう)・土器などが多く出土しました。
この古墳の特徴は、7世紀頃石室を改造してあり、このようなことは他の古墳ではあまりみられません。
伝法D地区の中原古墳は、8世紀の初めごろに造られた長さ3メートルの小さな古墳で、開墾などにより大部分が崩されていました。しかし、中からは、匂玉(まがたま)や水晶製の切子玉(きりこだま)などの副葬品が190点ほど発見されました。
この二つの古墳は、いづれもこの地方の有力者の墓と考えられます。
■律令体制下の中心的役割
今回の発掘調査によって、東平遺跡解明の貴重な資料となる、住居址や土器、鉄製品など多数が発見されました。
この時代、奈良の都では、律令(現在の法律)に基づき天皇を中心とした中央集権の政治が強くおし進められていました。そのため地方の人々は、律令に基づく税負担や労役に窮々とした生活を送っていたと思われます。この東平遺跡も他の遺跡と比べ規模がきわだって大きいことから、律令体制での地方の中心的役割を果していた集落だったと想像されます。
- 図表あり -
( 図表説明 ) 地図
( 図表説明 ) 年表
- 写真あり -
( 写真説明 ) 住居址から出土した矢じり
( 写真説明 ) 住居址から出動した小刀
( 写真説明 ) A地区からで集落址