昔、今泉に善得寺という大きなお寺がありました。
室町時代の初期、関東管領の執事、上杉憲顕(のりあきら)が勢子村(今泉村)に福王寺を建て、以前から帰依していた須津庄の天寧庵にいた大勲策和尚をむかえて開山しました。
それから3年後の応永5年(1398)に和尚がなくなりましたので憲顕の子朝宗(ともむね)は笠帆和尚(ちくほん)を招き、福王寺を富士山善得寺と改めました。駿河の守護であった今川範政(のりまさ)は善得寺を保護し、応永24年(1417)に駿河の国ではみられないような大きなお寺にしました。そして、多くの信者がお詣りしてたいへん栄えていました。
天文6年2月(1537)北条氏綱の軍に建物を全部焼かれてしまいました。しかし、天文8年になって、今川義元が前にもまして大きなお寺にしました。
天文23年(1554)には、雪斉長老のとりなしで、今川義元、北条氏康、武田信玄の3人が和睦の会議を開きました。これを「善得寺の会盟」といいます。
この寺も永禄12年2月(1569)に武田信玄のために焼きはらわれてしまいました。
その後、東谷和尚が再建しようとして、幾年もかかって資材を集めましたが、豊臣秀吉が小田原を攻めた天正12年に、せっかく集めた資材を戦争のために使われ、ついに再建できませんでした。
今は寺市場の一角に、その跡を示す石碑と、代々の住職の墓が草むらの中に埋っているだけです。
(鈴木富男稿)