市内大淵の落合町の小高い丘に「帳塚さん」と呼ばれている供養塔があります。
今から約260年くらい前のことでした。日照りが続いて作物が何年も取れなく、農民は大変苦しんでいました。ところが作物は取れなくても年貢米(ねんぐまい)は決ったとおり納めろときつい達しがありました。
落合村、中野村、三ツ倉村、片倉村の4ヵ村は「どうしたらよいか…」と毎晩会議を続けました。そして、落合村の名主新右衛門が代表で「農民を助けるため年貢をまけてもらいたい」と領主東泉院に願いでました。しかし、いくらお願いしても領主は取り合ってくれませんので、新右衛門は江戸幕府に直訴しようと、村を出立しました。
その後、いく日たっても新右衛門は帰ってきませんでした。ところが、1か月余りすると江戸から死体を引き取りにこいという通知がありました。新右衛門は直訴した罪で打首になったのでした。新右衛門の家族は死体を引き取って家の西側のヤブの中に埋めました その後、新右衛門の訴ったえで年貢は大変軽くなり、農民の生活は楽になったといいます。
この事件があってから20年ばかり後、4か村の人たちは新右衛門の供養塔を建てました。この塔の下には歎願書、血判書、新右衛門の覚書などを埋めたといわれています。
なお、毎年1月5日にお祭りを行ない、村人は義人新右衛門の霊を慰めています。 (鈴木富男)