今から約280年ほど前、京都三条通りに菅野内記という手習い師匠が万太郎(22歳)、おせき(15歳)の2人のこどもと住んでいました。
ところが、内記はふとしたカゼがもとで死んでしまいました 兄妹は父の遺言により、仕官するため老僕五兵衛と新しく雇った団助をつれて江戸へ下りました。
駿府の宿(現在の静岡市)についたとき、おせきが急に高い熱を出し、旅を続けられなくなってしまいました。数日たってもおせきは良くならず、旅費もなくなってきたので、万太郎は町医吉田玄仙夫婦におせきと五兵衛をあずけ、団助をつれて江戸へ出立しました。
富士川を渡り宮島村までくると、前方から武士の一団がきました。すれちがいざま、ひとりの若い武士が「おのれ団助逃さんぞ!」と叫び、−刀のもとに切り捨ててしまいました。この武士たちは、京都二条加番の片山伝五右衛門と、息子伝九郎(26歳)2人の仲間(ちゅうげん)でした。
万太郎は「拙者の召連れた家来を何の理由で切り捨てたか」と、とがめました。
伝九郎は「団助は2年前、支払いにやったら、そのまま逐電した不届者だ」とわめきました。そしてあざ笑いながら近づくと抜き打ちに切りかかってきました。万太郎は伝九郎を切り捨てたが、加勢した伝五右衛門と仲間2人のために傷つき、仲間2人をたおして息絶えてしまいました。
駿府に残ったおせきは知らせに驚き、宮島へかけつけました そして付近の茶店の主人八兵衛に事の次第を聞き「兄上様この仇は必ず討ちます」とかたく誓い、村人に手伝ってもらい兄のなきがらを葬むりました。
これが今に残る「仇討万太郎塚」だといわれています。
おせきは、宮島村に住む長谷川左内という人情の厚い武士に引きとられ、昼も夜も剣術のけいこにはげみました。
それから1年。仇の片山伝五右衛門が桑原玄蕃と名を変え、剣客井上軍次とその弟子暗雲弥八を連れ、中仙道を江戸へ下ることがわかりました。
そこでおせきは、左内の息子左重郎(24歳)とともに中仙道にむかい、貞享元年3月末、和田宿で見事兄の仇を討ちました。この話を藩主真田伊豆守が聞きおせきと左重郎に各百石の知行を与え、家臣に召抱えたといわれています。 (鈴木富男稿)
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( 写真説明 ) 万太郎塚−宮島