【広報ふじ平成29年】戦時中の食生活を知る
特集 戦争と平和
戦時中の食生活を知る
現代は、コンビニエンスストアやスーパーマーケットなどで、安全でおいしい食べ物を簡単に手に入れることができます。しかし、戦時中の日本では、食糧事情が大変厳しく、人々は生きていくだけで精いっぱいでした。甘味を知らずに育つ子どもたち、満足のいく食事がとれない人々。戦争が人々に与えた影響ははかり知れません。
「ぜいたくは敵だ」と言われていた戦時中の暮らしは、どのようなものだったのでしょうか。
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( 写真説明 )農作業に動員され働く吉原高等女学校の学生
戦時中の食糧事情
昭和13年(1938年)、政府は日中戦争の長期化に対処するため、国家総動員法を公布しました。
これにより、人的・物的資源をいつでも動員し、統制できる権限が政府に与えられ、人々は日常生活に必要な品物を自由に手に入れることが難しくなりました。
特に食糧問題は深刻でした。政府は昭和15年(1940年)に米の買い入れ価格を引き上げると同時に、自由販売を禁止しました。また、主食の米だけでなく、魚や野菜、調味料にまで統制が及び、甘味品は店先から姿を消し、砂糖は配給制になりました。この統制配給は、砂糖だけでなく、塩やしょうゆ、みそなどにも及び、昭和16年(1941年)には主食の米も定量配給制に変わりました。
配給制による食糧の調達方法
食糧が配給制になると、人々は町村役場から各家庭に交付された「消費世帯用主要食糧購入通帳」(左写真)を使って、指定配給所で規定量の主食を購入するようになりました。
また、主食以外のものにも購入券が交付され、指定の登録小売店で購入していました。
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( 写真説明 )消費世帯用主要食糧購入通帳
戦局の推移により悪化する食糧事情
太平洋戦争開始前後にはさらに統制が厳しくなり、食糧品だけでなく、家庭必需品のほとんどが統制配給になりました。
また、敗戦が色濃くなるにつれ、主食の配給は米よりも麦やパン、トウモロコシ、豆類などが多くなり、食糧事情はますます悪化していきました。
配給も1か月のうち7日分や10日分などに区切って配給され、各家庭では乏しい食糧でやりくりしていました。そのような状況の中、若い男性は徴兵され、戦地に赴くなどしたため、女性や高齢者、子どもが主になって農作業などをして、生活を支えていました(左写真)。
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( 写真説明 )サツマイモづくりの勤労奉仕をする大淵村女子青年団員
( 写真説明 )田植えの勤労奉仕をする小学生
戦時中の料理を食べてみませんか?
戦時中は、米に混ぜる麦の量が多くなったり、だしや砂糖などの調味料がなかったりと、自由に味つけをすることができませんでした。今回紹介するレシピは、戦時中に食べられていたものに少し味つけを加えたものになっています。
【ご飯】
物資が乏しい時代は、白米だけで食べるということはなく、かさを増すために、大豆やジャガイモ、カボチャ、麦、大根、サツマイモなどを混ぜていました。
●サツマイモ入り麦ご飯のつくり方
材料(6人分)/
米 1.5カップ
麦 0.5カップ
サツマイモ 400グラム
塩 少々
水 440cc
つくり方/
(1)米を洗う
(2)麦を加えて、30分間水に浸しておく
(3)サツマイモを1センチメートルの角切りにして、塩少々と合わせ炊飯器に入れる
(4)30分炊いて、蒸したらでき上がり
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( 写真説明 )サツマイモ入り麦ご飯
【すいとん】
水で溶いた小麦粉を、汁や湯に入れてだんごのように固めて食べていました。また、ほとんどの場合、汁に野菜や肉などの具が入ることはなく、サツマイモの葉やつるなど、本来捨てていた部位を具にしていました。
●すいとんのつくり方
材料(6人分)/
小麦粉100グラムを水100ccで溶いたもの
ニンジン 60グラム
大根 150グラム
ネギ 20グラム
煮干し 30グラム(頭・はらわたつき)
塩 少々
水 1,400cc
つくり方/
(1)煮干しを水(1,400cc)に10分つける
(2)ニンジンと大根を切って(1)に入れる
(3)(1)に入れた野菜を沸騰するまで煮た後、弱火で5分煮る
(4)再度強火にして、水で溶いた小麦粉をスプーンで入れる
(5)塩で味を整え、ネギを入れてでき上がり
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( 写真説明 )すいとん
戦争体験者の声
戦時中は「こんなものしか食べられなかった」ことを知ってほしい
私の実家は農家でしたが、「供出(きょうしゅつ)」という制度があり、収穫した米の多くを政府に提供しなければいけませんでした。さらに、若い男手は徴兵され、独身女性は軍需工場へ集められ、農家の生産力が低下し、食糧事情は悪化しました。自分たちが食べる米はほとんど残らず、トウモロコシや麦を混ぜたご飯を食べていました。調味料も手に入りにくく、味つけもおいしいとは言えませんでしたが、「こんなものでも上等」と思い食べていましたね。
学校へ持っていく弁当も、中身はご飯と梅干しか、サツマイモだけでした。食べ物がなく、食べないで過ごすこともありましたが、周りの家庭も貧しかったため、当時はそれが当たり前でした。
食べたいものも食べられない時代でしたが、全ては戦争がもたらしたこと。私の体験を通して、二度と戦争を繰り返してはいけないことを伝えていきたいですね。
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( 写真説明 )「富士の語りべ」の会 代表 橋口傑(すぐる)さん
問い合わせ/シティプロモーション課 電話 55-2700 ファクス 51-1456
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