皆さんは、富士山かぐや姫ミュージアムに保管されている青い目の人形を知っていますか。
今回は、「メリー」の紹介をします。
■アメリカ人形の来日
青い目の人形は「悪化した日米関係の修復を子どもたちの将来に託そう」というアメリカ人宣教師シドニー・ギューリックの思いを背負い、アメリカからやって来ました。
20世紀初め、アメリカでは日本からの移民を排除する動きが高まり、大正13年(1924年)、「排日移民法」が成立します。
このような状況に、日本でキリスト教の布教活動などをしていたギューリックは、日米の互いの理解は子どもからと考え、人形を贈る計画を立てました。呼びかけに応じて、全米から1万2,000体ものアメリカ人形が集まり、昭和2年(1927年)、ひな祭りに合わせて、日本国内の幼稚園や小学校に人形がやって来ました。町立富士川幼稚園(現在の富士川第一幼稚園)に贈られた人形の名前は「メリー」。身長は約40センチメートルで、目が開閉し、「ママー」としゃべり、夏と冬の衣装を10着ほど持っていたといわれています。
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(写真説明)富士川幼稚園に贈られた「メリー」
■答礼人形がアメリカへ
アメリカから贈られた人形の答礼として、日本からは日本人形を贈ることになりました。静岡県からは「富士山三保子(ふじやまみほこ)」と名づけられた人形が、アメリカへ旅立ち、アメリカ国内での展覧会や歓迎会などで展示されました。
アメリカへ贈られた答礼人形は、現在でも58体のうち44体の人形の存在が確認されています。
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(写真説明)静岡県から贈られた「富士山三保子」
■戦時中の「メリー」
昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争が始まると、日本ではアメリカ人形は敵とみなされ、「敵国のスパイ人形」とまで呼ばれ、多くの人形が処分されました。しかし、「人形に罪はない」と自宅などに隠し、保護した人もいました。
戦争末期、富士川幼稚園近くの室野・愛宕山には、米軍の本土上陸に備え、駿河湾に向けて砲座をつくり、大砲を据えるという計画があり、地下壕や大砲基地の準備が始まると、多くの軍関係者が出入りするようになりました。人形が見つかればすぐに処分されるだろうと考えた富士川幼稚園の教諭が、「メリー」を園近くの慈林寺(中之郷)に隠し守ったといわれています。
戦後、「メリー」は再び幼稚園に帰ることができましたが、同時期に日本に贈られた人形のほとんどは、行方不明になってしまいました。