「富士の災害史」は、過去に市域が見舞われた災害を皆さんに理解して、防災意識を高めていただくため、ことし3月に発行されました。広報ふじ2月20日号に一部掲載後、「もっと知りたい」というご意見を多数いただきましたので、今後定期的に掲載します。
宝永(ほうえい)四年富士山噴火絵図(個人蔵)〈静岡歴史文化情報センター提供〉
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( 写真説明 )現在の富士山
( 写真説明 )宝永四年富士山噴火絵図
■宝永の富士山噴火
江戸時代の宝永4年(1707年)11月23日、富士山頂の南東側から激しい噴火が始まり、16日間にわたって続きました。同年10月4日に宝永地震が起こってわずか49日後のことでした。この噴火により出現したのが宝永山です。
噴火による溶岩流の流出はほとんどありませんでしたが、火山性地震の揺れと火山弾や火山灰を空高く噴き上げる大爆発が続きました。この噴火は、御厨(みくりや)地方(現在の御殿場市・小山町)に大きな被害を与えました。東麓(とうろく)の須走では、噴火の噴出物が厚さ3メートル、御殿場でも1メートル近くに達したといいます。高く噴き上げられた火山灰は東方に運ばれ、江戸(現在の東京都)まで至りました。
■書類から見る噴火状況
吉原宿の宿役人が幕府に提出した書類(注進状)によると、「宝永地震で半壊した家が、11月22日から30回ほど続いた地震の揺れで全部潰れてしまった。その上、富士山が激しく鳴動し、その音は富士郡中へ響き渡り、大人も子どももびっくりしたが、死者は出なかった。さらに激しく富士山が鳴動し、富士郡中一面が煙で覆いつくされた。昼間は煙ばかり見えたが、夜は火柱が見えるようになった」
と、報告されています。
宝永の噴火は、噴火口が東麓だったことや偏西風の影響などにより、富士市域への大きな被害は記録されていません。