【広報ふじ平成25年】富士市の災害の歴史(1)
知っていますか?富士市の災害の歴史
皆さんは、過去に富士市を襲った災害を知っていますか?
東日本大震災を教訓として、みずからが暮らす地域で過去に起こった災害の歴史を正しく理解し、学ぶことは、防災対策の第一歩です。
そのため市は、これまでに富士市を襲った自然災害などの歴史をまとめました。今回は、その一部を紹介します。
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( 写真説明 ) 田地変じて湖水となる図『嘉永七甲寅歳地震之記(かえいしちきのえとらどしじしんのき)』(沼津市明治史料館蔵)
( 写真説明 )宝永四年富士山噴火絵図(個人蔵) ※静岡歴史文化情報センター提供。
( 写真説明 )冠水して泥海となった浮島沼周辺の惨状
( 写真説明 )富士川鉄橋の流失
災害の歴史を防災に生かす
■東日本大震災は「想定外」?
2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。この震災では、マグニチュード9.0の地震規模や津波の高さなどに「想定外」という言葉がたびたび用いられました。しかし、本当に「想定外」だったのでしょうか?
岩手県内には、「津波浸水想定区域」の道路標識や、過去の津波浸水の高さを示す標識が数多く設置されていますが、これらの多くは東日本大震災による津波浸水状況と合致しています。
また、津波によって2万人近い尊い命が奪われた反面、あの過酷な状況の中で、20〜30万人がみずからの命を守り抜いています。これは、過去の災害の教訓を親から子へ、子から孫へ伝え続けてきた努力のたまものです。
■災害の歴史から教訓を得る
災害による被害を正確に記録し、みずからが暮らす地域で過去に起こった災害の歴史を学ぶことは、防災対策につながります。
そこで市は、これまでに富士市を襲ったさまざまな自然災害などに焦点を当て、災害史としてまとめました。どのような自然現象が起こり、被害が生じたのか、さらにどのような対応策がとられたのかなど、現代を生きる私たちにとってさまざまな教訓になる内容をわかりやすく記しています。
地震・津波
【安政(あんせい)東海地震】
■東海道筋大地震大津波大出火図(防災専門図書館蔵・写真左)
1854年11月、遠州灘の御前崎沖を震源とするマグニチュード8・4の巨大地震が発生し、県内は沼津から天竜川河口にかけて大きな被害を受けました。左の「東海道筋大地震大津波大出火図」には、「吉原丸焼け」「不二(富士)川は、水がなく歩いて渡る」「岩淵半分焼け、後は潰れる」と記されています。誇張されている表現はありますが、吉原以西の東海道沿道や伊勢湾沿岸の各地区の被害の様子をうかがい知ることができます。
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( 写真説明 )東海道筋大地震大津波大出火図
■伊藤錬次郎(れんじろう)の『手記(しゅき)』に見る地震記録
安政東海地震発生時の生々しい様子や被害などは、伊藤錬次郎の『手記』に記されています。錬次郎は当時の富士郡伝法村田端の人で、39歳のときこの地震を経験しました。その後、伝法村役場からの依頼でこの体験記をつづり、76歳のとき『手記』が完成しました。
〜伊藤錬次郎の『手記』から〜
◎地震後の様子
錬次郎の家は半壊となり、南方角の家はすり鉢を伏せたように潰れました。
地震により伝法村では、大きい所で長さ2.7メートルほど地面が裂け、割れ目の幅は30センチメートル、深さは約120センチメートルほどのところがありました。
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( 写真説明 )川窪(くぼ)遺跡(厚原長沢)で発見された断層
◎地震山の出現
富士川流域は、安政東海地震による土地の隆起や陥没が非常に激しく、地形が大きく変わりました。錬次郎は、「東岸はくぼ地となって、西岸は木島村下から蒲原前まですべて高くなり、中之郷前の川の瀬から西は地震山と言われ、山のように隆起した」と記しています。
現在は確認できませんが、明治20年測図の地形図に「蒲原地震山」と図示され、昭和53年発行の『目で見る庵原の歴史』にも、左の地震山の写真が紹介されています。
この隆起や陥没の影響で、富士川の流路が東寄りに変化したため、森島や宮下などの富士川河口近くの村々は洪水に悩まされるようになりました。
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( 写真説明 )蒲原地震山
◎ディアナ号の遭難
地震発生から数週間後、宮島沖にロシアの軍艦が漂着しました。錬次郎の『手記』には、「ロシア軍の船が地震の被害に遭い、船が傷んだため水舟で上陸した。ロシア人たちは、船から陸へ大綱を張って荷物を海へ投げ込み、綱に手をかけて陸へ上がり、荷物を浜に広げて干していた。珍しいものばかりで、富士郡の人たちは地震の被害で我が身の居どころも定まらない状態であることを忘れ、連日見物に訪れた。代官の命令により、近隣の村が炊き出しを行った」と記されています。
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( 写真説明 )ディアナ号乗組員救助図(富士市立博物館蔵)
【津波は富士市に来たか?】
由比宿寺尾で問屋場の業務に携わっていた小池太三郎(たさぶろう)の『年代記話傳(でん)』によると、由比海岸では津波だけでなく海岸に土地の隆起があったことがわかります。
また、沼津藩士であった山崎継信(つぐのぶ)が書いた『嘉永七甲寅歳地震之記(かえいしちきのえとらどしじしんのき)』(2ページ写真1)によると、鷲頭山(わしずやま)(現在の沼津市)近くでは、水田が地盤沈下してくぼ地になり、そこへ津波が入り込んで湖水になった様子が描かれています。
しかし、富士市の海岸に「津波が押し寄せた」「津波による被害を受けた」などの記録がないため、津波が来たかどうかは詳しくわかっていません。
添付ファイル
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