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【広報ふじ平成24年】特集 戦争と平和 その1

残された人たちの戦争

 昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終戦を迎えました。
 富士市の戦没者数は3,697人。 戦地へ赴き、戦った多くの人が命を落としました。
 しかし、戦争で苦しんだのは戦地にいた人たちだけではありません。富士市に暮らし、残された人たちもまた、さまざまな思いを抱えた戦争の犠牲者です。
 今回は、富士市で太平洋戦争を体験した人たちの声を特集します。

- 写真あり -
( 写真説明 )石井さん(左上)が戦地にいる夫の武司さんへ向けて書いた手紙

「ようやく帰ってくる」ずっと願っていた

 結婚して2年半、息子が生まれて半年ほどたったころ、召集令状(※)が届き、夫はあっという間に出征してしまいました。残された私は子ども1人を抱えて夫の両親や祖母、7人の兄弟と一緒に暮らしていました。夫の祖母の葬儀のとき、鈴川駅が戦闘機に爆撃され、家族と親戚みんなで慌てて畳の下に隠れたこともありましたよ。
 夫の家族は息子の面倒を見てくれ、とてもよくしてくれました。でも、私は夫がいないことで、家族の中で自分だけが違うような気がしていて、心はいつも寂しくてたまりませんでした。
 終戦を迎え「夫がようやく帰ってくる」と思い、あちこち聞いて探し回りましたが、夫は帰って来ませんでした。耐えられない気持ちでした。

※召集令状…兵役義務のある人を 召集する命令文書。赤い紙を使ったので「赤紙」とも言われた。

- 写真あり -
( 写真説明 )結婚当時の石井さん(23歳)
( 写真説明 )石井 喜代子さん(比奈)

■戦争の激化により、夫に送ることができなかった手紙から(一部抜粋)
 今晩も義昭(よしあき)(息子)がお月様を見たがるので外へ出てみますときれいにすんだお月様でした。一生懸命指さしては、なむなむと手を合わせる姿を見て、義坊のお父ちゃんも遠い遠い大陸でこの月を眺めてどんな気持ちでいるだろうねと言い聞かせて、
また、自分に言い聞かせるような気持ちで…。
 (中略)あれから丁度(ちょうど)一年、昨年貴方(あなた)からの初めての便りはこのごろでしたね。義昭はこのごろでは、しっかりと歩くようになりました。

- 写真あり -

命がけの帰還 二度と会えなくなった弟妹

 私は6人兄弟の長男で、昭和16年〜18年に従軍しました。中国で捕虜になりかけ、命からがら逃げたことがありました。つらい3年間の従軍生活をやっと終え、帰りの電車から富士山を見たとき「生きて帰ってきた」という実感で涙が出ました。そのとき富士市に帰ってきたのは私だけだったのです。
 しかし、家に着くと、2人の弟たちは戦地に出征した後でした。
今どこで何をしているのかわからなくて心配でした。しばらくして一番下の弟から「船に乗って戦地に向かっている」と手紙が届きました。1通だけでした。
 私は、沼津海軍工廠(こうしょう)で航空無線機の部品をつくる仕事に通いながら、両親と2番目の妹と一緒に暮らしていました。
 私が富士市に帰ってきて1年もたたない昭和19年9月、一番下の弟が戦死したと公報がありました。翌年には、焼夷(しょうい)弾に当たったけががもとで、当時17歳だった2番目の妹も失いました。

- 写真あり -
( 写真説明 )井上 久男さん(柳島)
( 写真説明 )22歳で亡くなった一番下の弟俊行さんへの「勲八等白色桐葉章(くんはっとうはくしょくどうようしょう)」
( 写真説明 )2番目の妹幸子さんが亡くなったときの葬儀の香典帳
添付ファイル
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