昭和51年8月
(田子の浦港)
●ディアナ号の遭難について
1854年、日本と友好関係を求めるため下田港に入港していた、プチャーチン提督率いる旧ロシア軍艦ディアナ号が、安政の大地震による大津波で大破しました。
ディアナ号は、修理のため戸田港に向けて出港しましたが、嵐に遭い、三四軒屋沖まで流されてしまいました。
漂着したディアナ号を発見した地元の人々は、船員たちを命がけで救助しました。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 引き揚げられたいかり
長年の念願だったいかり引き揚げ
約150年前、三四軒屋沖に旧ロシア軍艦ディアナ号が嵐で沈没した話は、祖父や父からよく聞かされたものでした。
私の家は、先祖代々漁師でシラス漁などをしていましたが、海底に沈んでいるディアナ号のいかりで漁網が破られてしまうことがよくありました。
昭和29年、1回目のいかり引き揚げ作業が行われました。私も父と一緒に参加し、見事引き揚げに成功しました。
しかし、海底には漁師たちから「唐人の根っこ」と呼ばれていたいかりがもう一つあって、漁の障害になり続けました。
昭和51年8月3日、2回目のいかり引き揚げ作業が行われました。市や田子の浦漁業協同組合など大勢の人が協力をしました。私は作業の指揮をとりましたが、朝から悪天候で雨風が強かったり、いかりを引き揚げるためのワイヤーが切れてしまったりと難航しました。ようやくお昼ごろ、上の写真のとおり、田子の浦港の中央埠頭に引き揚げられました。
いかりは、地元からの要望で三四軒屋緑道公園に移され、プチャーチン提督の銅像とともに今も大切に守られています。
- 写真あり -
( 写真説明 ) いかりの引き揚げに2回とも携わった 齋藤 久(ひさし)さん(宮島)