54 蓼原大橋開通
昭和52年10月17日
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( 写真説明 ) 現在
( 写真説明 ) 横割と蓼原地区の南北を東海道本線をまたいで結ぶ道路「田子浦伝法線」の陸橋は、昭和47年に着工し、総工費 7億3,600万円、5年の歳月をかけて完成しました。名称は、市民からの公募で「蓼原大橋」に決定しました。先頭を歩くのは、当時の渡辺彦太郎市長(故人)です。
一家そろって記念すべき第一歩
蓼原大橋の渡り初めに私たちが選ばれたときは、とても驚きました。当時は、3世代の夫婦がそろっている家は珍しかったからだそうです。一度は母が「恥ずかしい」と断ったのですが、「おめでたいことだから」と親戚に勧められ、両親と息子夫婦と一緒に出ることにしました。
式の当日、大勢の人が見つめる中を、緊張しながら一歩一歩踏みしめて歩きました。記念すべき場に出られ、「これも健康なおかげ、幸運なことだ」と感謝でいっぱいでした。大役を終え、ほっとして家に帰ると、親戚が集まってお祝いをしてくれて、うれしかったですよ。また、この年の春には初孫も生まれており、私たちにとって忘れられない年となりました。
橋ができる前は、少し西側の蓼原踏切を渡っていましたが、そこは一度遮断機がおりると「あかずの踏切」と呼ばれ、長く渋滞して不便でした。橋のおかげで、南北の交流がスムーズになって、利用する皆さんも喜んでいましたよ。今や富士市の大動脈。通るたび、あの日6人で歩いたことを懐かしく思い出します。
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開通式で渡り初めをした
金指(かねざし) 伸司さん
益(ます)子さん(本市場)
(上の写真前列右から4・5人目)