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【広報ふじ平成20年】私の言葉で伝えたい、「戦争」

「今まで、思い出すのも苦しかった。
でも、いつか話しておかなきゃなって、思っていたんです」

 広報ふじ5月5日号で、戦争体験を語ってくださる方を募集したところ、26人もの方々からご連絡をいただきました。今回、皆さんにお会いして当時のお話を伺うことができましたので、ご紹介します。
 終戦から63年たっても、決して消え去ることのない、つらく悲しい記憶。皆さんのお話には、平和への強い願いが込められていました。
千の赤い結び目が、守ってくれると信じて。
渡辺 愛子さん(83)(天間)
- 写真あり -
 出征する人の家族が、道行く女性に「縫ってやってください」と千人針を差し出す光景をよく見かけました。私は寅年で、千人針の結び目を年齢の数縫えるので、同級生とみんなでお寺に集まって、何人分もの千人針を縫いました。「おなかに巻くと弾に当たらない」という言い伝えを信じて、祈りつつ、なれない手つきで懸命に針を進めたものです。

「これを着る兵隊さんが、助かりますように」
願いながら縫った飛行服。
井出とし子さん(81)(宮島)
- 写真あり -
 私は、ミシンを扱えるという理由で、18歳のときに航空兵の飛行服をつくる工場に採用されました。飛行機が海に落ちても、搭乗員は助かるように、水に浮く「カボック」と呼ばれる綿を中に詰め、ミシンで縫い合わせます。
 兵隊さんが命をかけて敵に突っ込むときに、私の縫った服を着ていくのかと思うと、願いを込めずにいられませんでした。「助かりますように…」得意のミシンを踏み、1枚1枚丁寧に縫いました。ミシンを使うときだけは、疲れも苦しい思いも忘れていられました。

祈り《千人針》
- 写真あり -
 千人の女性が赤い糸で一人一針ずつ布に結び目を縫い、出征する人の無事を願って持たせた物。腹に巻けば銃弾よけになると考えられました。
 「虎は千里を行って千里を帰る」と言われるため、縁起を担ぎ、寅年の女性は年齢の数だけ縫うことができました。虎の絵を描いたり、「死線(4銭)と苦戦(9銭)を乗り越える」という意味で5銭と10銭銅貨を縫いつけたりもしました。

おなかに入りさえすれば、何でもよかった。
伊東 嘉信(よしのぶ)さん(81)(伝法)
- 写真あり -
 中学卒業後、東京にあこがれて航空計器の会社に集団就職しました。しかし、「これから一旗揚げよう」と希望に燃えていたときに開戦となり、空襲を避けて、静岡の紡織会社などへ疎開しました。戦争のために生活は一変し、目が覚めたら仕事、仕事の毎日でした。
 電車の切符がなかなか買えなくて、疎開先から帰るのも一苦労でした。とにかく石けんや食べる物が足りず、食べ盛りの私は、何とか工夫しておなかを満たそうとしました。胃腸薬で空腹を紛らわせたり、人の畑から野菜を勝手にとってきたり…。今考えれば恥ずかしいことですが、当時はよくあることでした。入手方法や味はどうであれ、おなかに入ればよかったのです。

一粒でも多く、家族に食べさせてあげたかった。
増田 衛(まもる)さん(72)(神谷新町)
- 写真あり -
 食べる物を手に入れるため、姉と一緒に汽車を乗り継ぎ、静岡市の家から掛川や磐田の農家まで買い出しに通いました。子ども2人の買い出しはねらわれ、肩かけカバンのひもを切られて盗まれたり、通りすがりの人にお金をだましとられたりしました。後で父に怒られるのが怖くて、泣きながら必死で取り返しに行ったものでした。
 戦後も生活は厳しく、たばこを欲しがる父のために、道に捨てられた吸い殻を拾い集めたり、給食でミルクやクジラの肉が出ると、「弟たちにあげたい」と、食べずに持ち帰ったりしました。当時は、米一粒もむだにせず物を大切にしましたし、友達みんなで団結し合って生きていましたよ。

かなえたい夢もあったのに…。戦争に左右された若者の未来。
佐野 稔さん(78)(松岡)
- 写真あり -
 旧制中学のとき、東芝富士工場で、毎日熟練工に絞られながら精密機械を修理していました。本当は将来の夢のために学校で勉強したかったけれど、どうにもならない願いでした。
 昭和20年6月。毎日のように富士山を目がけて米軍機が飛来し、警戒警報も「またか」というほど頻繁に鳴りました。学校の警備員もしていた私は、警報が鳴るたびに学校へ行く役目。この日も警報を聞き、機銃掃射を恐れながら、軒伝いに自転車を走らせました。
 学校に着くと、私たちの工場の方からすごい音と煙が…。見ると、艦載機グラマンが、駿河湾から5機編隊で次々と工場へ飛んで来て、波状攻撃の真っ最中。まるで航空ショーのようでした。工場はめちゃくちゃに破壊され、生産活動はとまりました。多くの工員が犠牲になったはずなのに、軍の命令で被害情報はすべて秘密にされました。

軍のためにつくられた富士飛行場、こき使われた500人の中国人。
木下 達行さん(79)(中央町1)
- 写真あり -
 旧制中学のとき、毎日スコップを自転車にくくりつけて、学校ではなく、陸軍の「富士飛行場」建設現場(宮下・五貫島地区)へ通いました。建設予定地の住民(210戸)は、強制的に引っ越すよう命令され、私は牛車で移転を手伝いました。
 労働力として強制連行されてきた500人の中国人は、食べ物もろくに与えられずに休みなく働かされ、空腹を紛らわすためにイナゴやカエルを食べていました。1割の人が肺炎や胃腸炎で亡くなったそうです。
 完成した飛行場では、私たちが対空機関銃用の穴を掘る傍らで、陸軍の若い少尉たちが飛行訓練を行っていました。今思えば、彼らは特攻隊として飛び立って行ったのでしょう。こっそりのぞいた兵舎の食堂には、貴重な白い御飯や卵、牛乳が並んでいました。
- 写真あり -

労働力を補うために
 働き盛りの男性が兵士として出征し、労働力不足となったため、生徒・学生たちの力が必要になりました。富士では主に東芝、大昭和、日産などの軍需工場、飛行場建設現場などへ強制的に動員されました。(写真は吉原高等女学校生徒) 
- 写真あり -
( 写真説明 ) 提供:市立博物館
空襲の恐ろしさ
- 写真あり -
 昭和20年6月19日深夜、静岡大空襲。米軍のB29123機が旧静岡市街地に焼夷弾を投下し、約2,000人が死亡、焼失戸数は約2万7,000戸に及びました。
 続いて旧清水市街地が7月6日に空襲、31日に艦砲射撃を受け、7月17日に沼津市街地が大空襲に遭いました。

雨のように焼夷(しょうい)弾が降り注ぐ。
恐ろしい音が耳から離れない。
小岩井 郁恵さん(77)(石坂)
- 写真あり -
 静岡大空襲の日、夜中にB29の大編隊が低い音を響かせ飛んできました。照明弾で昼間のように明るくなった後、焼夷弾が音を立てて降ってきました。家を出ると、通りは既に火の海で、逃げまどう人でごった返していました。でも皆、不思議と無言です。母と姉と、キュウリ畑の畝の間に逃げ込んでうずくまり、目と耳を両手で覆って、震えながらお経を唱え続けました。「ブーン、バラバラバラ…」今も、あの夜に何度も聞いた音が耳から離れません。
 空襲の後、丸焼けになったまちに米軍機が飛んできて、「早く降伏すればぜいたくができる」の文字と、ごちそうの写真が刷られたビラをばらまきました。安倍川の河原では多くの死体が焼かれ、「焼け死んだ人もまた焼くんだな…」と思いながら、煙を見つめました。

「百合子、生きていてくれ…」
私を思って駆けつけた父。 
山本 百合子さん(77)(今泉)
- 写真あり -
 通信の学校へ通うため、静岡市で寮生活をしていたときに、静岡大空襲に遭いました。焼夷弾の降る中、山へ逃げ、赤く燃えるまちを明け方まで眺めていました。
「梅干しを 口に含みて 逃げたりき
  焼夷弾落ち来るを 目の前にして」
これはその時を思い出し詠んだ歌です。
 空襲の翌日、私を心配してすぐさま父が吉原から駆けつけてくれました。駅が爆撃され汽車が走っていなかったため、無理を言って消防車に乗せてきてもらったそうです。焼死体がごろごろ転がる焼け野原を見て、絶望していたらしく、私を見つけるなり「百合子、お前は生きていないかと思って来たやー」と言い、ほっとして倒れ込みました。きっと、私を心配して一睡もせずに夢中で駆けつけてくれたのでしょう。

幼い私を、みんなが守ってくれた。
齋藤 衛さん(73)(今宮)
- 写真あり -
 10歳のとき、住んでいた清水のまちが、立て続けに空襲と艦砲射撃を受けました。軍需工場や造船所がねらわれたようです。艦砲射撃の直前、数日前の空襲の恐怖がよみがえった私は、「防空ごうへ行くのが嫌だ」とぐずりました。一人逃げおくれていた私を、近所のガキ大将が連れて逃げてくれました。
 隣組の防空ごうは、既に人であふれ返っており、仕方なく2人とも入り口近くで横になりました。すると、突然外で何かが光り、まぶしくて目が覚めました。花火かと思い、「キレイだなぁ」と空を見上げた直後、地を揺らす爆音が。三保沖に浮かぶ駆逐艦から次々と撃たれる砲弾の威力は強く、大半は工場を飛び越えていきました。ガキ大将が、震える私をかばうような格好で寝てくれ、心強かったのを覚えています。

「一家の将来はお前の肩に」父の言葉に決意した15歳。
青木 宏夫さん(79)(今泉)
- 写真あり -
 出征した父の代わりに、長男の私は15歳にして一家を守る責任を痛感していました。学徒動員で岐阜県の航空機工場(川崎航空機)で朝から晩まで働いた後、疲れた体で食糧の買い出し。「これも家族のため」と毎日必死でした。
 昭和20年7月9日、岐阜市大空襲。その晩はなぜか嫌な予感がし、万一に備えて家族に身の周りを整理するよう伝え、ゲートル着用のまま寝ました。空襲警報に続く焼夷弾の雨、あっという間に周りは火の海に。稲田の道は、避難する人であふれました。道端に、ももの肉が裂けた女性が座り込み、泣き叫ぶ赤ちゃんを抱えて助けを求めていましたが、家族を守るのに必死で、どうすることもできず通り過ぎました。
 夜が明けて、散り散りになっていた家族の無事を確認し、喜びもつかの間、家も食糧も丸焼け…これからどうやって生きていくか途方に暮れたとき、父の言葉が私を勇気づけました。焼け跡の米の倉庫から、人と奪い合うようにして手に入れた真っ黒焦げの米。一粒ずつ砂とより分けて、雑炊にしました。

旧ソ連軍が満州へ侵攻
 昭和7年、日本は中国の東北部に満州国を建国。「満蒙開拓移民団」をはじめ、多くの日本人が移住しました。 
 しかし昭和20年8月9日、旧ソ連軍が満州へ侵攻し、日本人居留民は逃避行の末、日本へ引き揚げました。
 引き揚げまでには、旧ソ連軍による暴行などが相次ぎ、さらに飢えや病気で多くの人々が途中で脱落しました。親と生き別れになって中国で残留孤児となる人々も数多く出ました。
- 写真あり -
(写真は大連大広場)

逃げても「死」が待っていた。
安倍 和人さん(74)(松岡)
- 写真あり -
 昭和20年8月10日、満州の国民学校へ登校するなり「ソ連軍が攻めてくるから、帰って家族と一緒に行動しろ」と言われ、母とともに20人ほどの団体で延々とハルビンを目指して歩きました。途中、幼い子どもを連れた女性が、仲間に迷惑をかけまいと、ありったけのお金を現地の人に渡して子どもを預けたのです。泣きながら「ごめんね、ごめんね…」と何度も頭を下げる姿に、私は女性の気持ちを思い、つらくて見ていられませんでした。
 ようやくハルビンに着き、収容所で1年近く暮らしました。夏は短く、冬は極寒の地。発疹(はっしん)チフスがまん延(えん)し、薬もなく多くの人が亡くなりました。死体を細長い溝穴に重なるように埋めましたが、やがて穴がいっぱいになり、冬には道のわきに積み上げられて凍っていました。そのうち、心が「死」になれてしまうような気がしました。

「最期は私の腕の中で…」命がけで私を抱き帰った母の愛。
垣谷(かきたに) 芳江さん(64)(川成新町)
- 写真あり -
 昭和21年、母は2歳の私を連れて、満州から引き揚げてきました。その道中、子どもは泣くと捨てられてしまうため、現地の人に「育ててあげるから置いて行きなさい」と言われたそうです。でも母は「手放すくらいなら、私の腕の中で…」と、泣き声が漏れないよう私を毛布でぐるぐる巻きにし、ほかには何も持たずに私だけを抱えてすし詰め状態のトロッコに乗りました。途中、おしめもかえられず飲まず食わずだったのに、私は泣くどころか身動き一つせず、母は「死んだのか…」と思ったそうです。舞鶴港に着いて急いで毛布を解くと、私は母を見てにっこり笑ったそうです。母はその笑顔を見て、「頑張って生きていこう!」と励まされたと言います。
 戦後、母子2人の生活は、あちこちに身を寄せながら苦労の連続でした。でも母はいつも私のことを一番に思い、私は母の愛に支えられ生きてきました。私の願いは、戦争を繰り返さず、子どもが私のような思いをすることのない世界になってほしい、それだけです。

弟にあげたかった、白いミルク。
上杉 玲子さん(70)(入山瀬2)
- 写真あり -
 満州で暮らしていた私たち一家は、ソ連軍から逃れるため、慌ただしく家を出ました。父が「熟れたら末の弟に食べさせよう」と言っていたトマトが庭先に残ったままでした。警察官の父は、残務整理のため1日残ると言い、母に銃の使い方を教え、子ども5人を託しました。貨車に乗った私たちを直立敬礼で見送ってくれた父、それが8歳の私が見た最後の父の姿です。
 終戦も知らないまま、死体が転がる真っ暗な道を逃げ続けました。1歳の末の弟は、ミルクがないため栄養失調でおなかが膨らみ、母は仕方なく砂糖のかわりにサッカリン(人口甘味料)を入れた重湯(おもゆ)を飲ませました。それは体に合わず、下痢をしてしまうのは承知の上でしたが、飢えて苦しむよりはましだと考えたのでしょう。やがて、弟はミルクを求め続けながら死にました。私たちは、小さな弟をたんすの引き出しに入れて焼きました。弟は、細い細い骨になりました。今でも、真っ赤なトマトと白いミルクを見るたび、「弟にあげたかった」と強く思うのです。
見たこともないはずの戦車の夢に、今もおびえる夜。
鈴木 藤雄さん(83)(伝法)
- 写真あり -
 最後の初年兵として静岡34連隊に入隊しました。「蛸壺壕(たこつぼごう)」と呼ばれる一人用の縦穴に身を潜め、敵の戦車が来たら、爆弾を抱えて体当たりする肉弾訓練を毎日続けました。「私もいつか飛び込んで死ぬんだ」と覚悟していました。
 静岡大空襲の翌日、被害を受けた静岡市内の整理作業を行っていると、焼け野原で茫然(ぼうぜん)と立ちつくす人々が。「兵隊さん、日本は絶対に負けません!」と興奮して叫んだ人が忘れられません。 
 そして終戦の日の夜、どの家も電球を覆っていた黒い布を外し、明かりが一斉にともり、まぶしいくらいでした。私は、明るいまちを眺め、恐怖から解放された喜びで胸がいっぱいでした。しかし63年たった今でも、実際に見たこともないはずの戦車が向かって来る夢を見て、飛び起きることがあります。

空襲警報の響く中、悔し涙の花嫁姿。
遠藤 初男さん(88)
   ゆき子さん(86)(伝法)
- 写真あり -
 私たちが結婚したのは、戦況厳しい昭和20年5月。親の紹介で、結婚式当日に初めて会いました。戦時中、派手な式は禁じられましたが、花嫁姿にあこがれていた私は、無理を承知で頼み込み、髪を「文金高島田」に結い、豪華な「江戸褄(づま)」の着物を着せてもらいました。ところが、料理が仕出しの途中で警察に没収されてしまい、お客さんに申し訳なくて、私はずっと下を向いて涙をこぼし、夫の顔もまともに見られませんでした。そのうち空襲警報が鳴り、三三九度の杯も交わさぬまま、着物が汚れるのも気にせず防空壕へ逃げ込みました。(ゆき子さん談)
離れていても、
お互いが心の支えだった。
 「新婚」を実感する間もなく、私は再召集され、離れ離れに。終戦後は田畑の整備に奔走しました。妻は、家族の食糧を確保するため、交換する着物を持って買い出しに走り回ってくれました。今思うと、離れている時間が長くても、いつもお互いが心の支えでした。一緒になれたおかげで、苦しい時代を乗り切れたと幸せに思っています。(初男さん談)

「夫が無事に帰って来ますように」異国の地で一人祈る。
山宮 リャウ(りょう)さん(89)(天間)
- 写真あり -
 昭和15年、夫の仕事の関係で台湾へ渡りました。夫は、翌年台湾で入隊。「もしものことがあったら、茶だんすに小さい瓶(びん)があるから、飲みなさい」と言われました。それは劇薬でした。
 異国の地で一人、赤ちゃんを抱えて暮らすのは、本当に心細いものでした。夫の無事を確認する連絡手段はなく、ラジオの情報だけが頼り。毎日、近所の神社へお参りしては、「早く戦争が終わりますように、夫が無事に帰って来ますように」とお願いしていました。
 終戦後、子どもと日本へ戻り、夫の実家に身を寄せました。昭和21年5月のある夜、「こんばんは」と戸をたたく音が。そこには、やせこけて、ボロボロの軍服を着た男性が立っていました。中国での捕虜生活を終えた夫でした。私は夫だと気づかず、悲鳴を上げてしまいました。顔つきが変わるほど、夫は大変な思いをしてきたのでしょう。待ち望んでいた夫の帰国に、うれしさがゆっくりとこみ上げてきました。

走り去る列車に、別れの言葉。 
長沢 貴信さん(77)(宮島)
- 写真あり -
 原駅から沼津中学校へ通う途中、戦争末期にはよく駅のホームで兵隊の乗った列車を見かけました。その列車はいつもよろい戸がかたく締め切られ、連結を待っていました。時々、戸のすき間からホームへ手紙がポトリと落ちてきました。憲兵にばれないよう、「代わりに手紙を出してくれ」と言う意味だと思い、何度か拾ってポストに入れました。きっと家族へあてた手紙でしょう。兵隊は、家族への思いを伝えることさえ禁じられていたのです。
 そんな中である日、出征した叔父の上司が手紙をくれて、叔父の乗った列車が、「○日に家の近くを通って、激戦地へ向かう」と教えてくれました。親族みんなで線路のそばでかがり火をたいて、通り過ぎる列車を見送りました。一瞬、窓から体を乗り出して手を振る人が見えました。叔父が私たちに気づいたのだと思います。おなかに子どものいた叔母は、目的地の戦況が悪いと知りながら、どんな思いで見送ったでしょうか。その後「サイパンで戦死」の知らせが届き、遺骨も戻って来ませんでした。

命をかけて《特攻隊》
 戦争末期、陸海軍合同での大規模な作戦として、爆弾・爆薬を搭載した軍用機や高速艇などが、敵艦船などを目標に、乗組員ごと体当たりする戦法が実施されました。それは、乗組員が生還する可能性はないに等しいものでした。
 九州・台湾から行われた航空特攻とあわせて、艦艇による水上特攻や、人間魚雷「回天」、特攻艇「震洋」などの体当たり艇などが投入され、多くの命が失われました。

新井 敬一さん(故人・享年88)の体験を語ってくれた
 妻 新井 やゑ(え)さん
息子    淳一さん(中島)
- 写真あり -
 夫は、「伊号第366潜水艦」に乗艦し、潜水艦攻撃のほか、戦地への食糧輸送も行いました。南方の島で戦う兵隊は、皆、米俵も担げないほどやせ衰え、見るにたえなかったそうです。帰りには傷病者を乗せて帰るものの、途中で息絶えてしまう人も多く、海に流して水葬にしたそうです。「あれではサメのえさだ。生かしたまま家族のところに帰してやりたかった」と繰り返し話していました。(やゑさん談)
 昭和20年8月11日、「回天」という人間魚雷を潜水艦から発射したときのことも、よく聞かせてくれました。「せめてあと4日終戦が早ければ、仲間は死なずに済んだのに」と。よっぽど父も悔しかったのでしょう。(淳一さん談)

「日本へ帰してやりたかった」と繰り返し悔やんだ。 
- 写真あり -
( 写真説明 ) 伊号第366潜水艦
敬一さんの手記から(省略あり)
 「それは、太平洋戦争中でも日本海軍最後の潜水艦攻撃と思う。私の乗艦していた潜水艦が、南太平洋上で敵の大輸送船団へ回天戦と魚雷攻撃を決行した。
 艦長の「搭乗員乗艇」の命令で、特攻隊員は自分の艇に乗り組む。最後の号令「発進」と艦内へ伝令され、回天は轟音(ごうおん)を私どもの頭上に残して敵艦船に向かって突進するのである。次々に3基発進されて、発進後40数分にして爆発音は私どもの潜水艦まで聞こえた。
 発進した特攻隊員が、魚雷頭部に充てんした1・55トンの炸薬とともに、小型潜望鏡を頼りに相手の艦船を確かめながら海中を突き走り、敵に体当たりする。この事実を、後世に話し伝えたい」

巨大な船体が、海に沈む。まるで氷が溶けるように。
依田 国友さん(82)(今泉)
- 写真あり -
 昭和19年10月23日、「レイテ沖海戦」。私の乗った一等巡洋艦「高雄(たかお)」を含む艦隊4隻は、フィリピン沖で米軍潜水艦から魚雷攻撃を受けました。艦橋で見張りをしていた私は、前方に白い雷跡を発見し、とっさに艦長に報告しました。同時に、大地震が起きたかのような衝撃とともに、赤白黒の水しぶきが立ち上りました。船は大きく傾き、斜めになった甲板の上を、海水とともに乗組員がすべり落ちていきます。私は海へ落ちるまいと必死で船にしがみつきました。
 目の前で、味方の船「愛宕(あたご)」「摩耶(まや)」も爆撃を受け、海中へ沈んでいきました。私は斜めになった「高雄」の上へ、海に投げ出された仲間を必死で拾い上げました。今でもそのときの夢を見ては、うわ言で「頑張れー!」と戦友の名前を呼び続けることがあります。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 巡洋艦「高雄」

「お前は若いんだから、絶対死ぬな」言い残して班長は出撃していった。
滝沢 文治(ふみじ)さん(79)(中里)
- 写真あり -
 17歳であこがれの海軍に志願し、長崎の魚雷艇攻撃隊に配属されました。長崎には、海軍の学校でお世話になった班長がいたので、うれしくて真っ先に訪ねました。久々の笑顔の面会のはずが、班長はいきなり私を殴り、「おれはふるさとの墓にいるから会いに来い。お前は若いんだから、どんなことがあっても絶対死ぬなよ!」と、どなったのです。翌日班長は、魚雷艇で敵に体当たりするため沖縄へ出撃しました。 
 「お国のために」命をかける時代なのに、なぜ「死ぬな」と言うのかわかりませんでしたが、その言葉が胸に引っかかり、仲間が「おれを行かせてください!」と出撃に名乗りを上げる中、「意気地なし!それでも帝国海軍軍人か」とののしられても、「決して死ぬものか」と手を挙げませんでした。出撃する前の夜は、皆とお酒を飲み軍歌を歌って泣いていた仲間も、勇敢に旅立っていきました。彼らを何度も見送りながら、自問自答の日々を送りました。しかし、今、私が生きているのは、確かに班長のおかげだと思っています。
戦いは続く。敵と、飢えと、病気と…
- 写真あり -
 戦争末期、南方の島々に送られた兵士たちへは、思うように食糧の補給もされませんでした。ジャングル内での無謀とも思われる作戦の中、敵の攻撃だけでなく、飢え、マラリアをはじめとする病気により、次々と兵士が倒れていきました。

「一緒に祝杯をあげよう」手を握って誓い合った戦友の死。
佐野 錦一さん(88)(中島)
- 写真あり -
 静岡34連隊に入隊し、開戦と同時に香港、ニューブリテン島(現パプアニューギニア)などの戦地へ赴きました。戦地へ向かう船の中で、親友の下田君、小沢君と3人で、手をかたく握り合いながら「無事に帰れたら、それぞれのふるさとで一緒に祝杯をあげような」と誓いました。ところがある日、情報係として戦病死者の名簿整理をしていた私のもとに、親友2人が「ガダルカナル島で戦死」との報告が入ったのです。ショックで言葉が出ませんでした。
 どんなに訓練を積んでいても、実際に敵を前にすると、一歩を踏み出すのが本当に「怖い」と感じた戦争。そんなつらい日々も、「無事で帰ろう」という同じ思いで頑張る親友がいたから、乗り越えられたのです。そのきずなは親子以上でした。彼らのふるさとにお墓参りに行くたびに、「3人でお酒を飲んだら、どんな感じだっただろう…」と想像します。
- 写真あり -

美しく、平和な島が戦場に変わった。
佐野 一郎さん(86)(岩本)
- 写真あり -
 22歳で海軍に入団し、ニューブリテン島のラバウル飛行場で、滑走路の修復などを担当しました。私たち一番下の兵隊は、ことあるごとに、罰として「海軍精神棒」で、おしりが赤黒くはれ上がるほどたたかれました。
 食糧を運ぶ船が来なくなると、仕事用のブルドーザーで畑を耕し、自給自足で食いつなぎました。初めて訪れた南国の島は、「ここが戦地か?」と疑いたくなるような美しい景色が広がり、私たちの心をいやしてくれました。戦争さえなければ、のどかで平和な島だったでしょう。このタバコ入れ(写真上)は、拾ったヤシの実と米軍の落下傘のひもを使ってつくりました。手で巻いた葉たばこを入れて、いつも左の腰にぶら下げていた愛用品です。今も、時々見ては当時を思い出しています。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 佐野さん作のタバコ入れ
( 写真説明 ) ラバウル飛行場

孤独な夜は、歌を心の励みに。
塩崎 安治(やすじ)さん(84)(東柏原新田)
- 写真あり -
 入隊して1か月の訓練の後、朝鮮を経て、私たち陸軍兵は、どこへ行くかも知らされず、馬と一緒に船に詰め込まれました。昭和19年12月末、フィリピン・ルソン島に到着し、その晩、大量の武器や食糧を載せたままの船が、敵の攻撃で沈められてしまいました。残ったわずかな食糧と武器を持ち、ジャングルの中、どこを歩いているのかもわからないまま歩き続けました。
 昭和20年6月、米軍の総攻撃を受け、私は腰と足首に貫通銃創(かんつうじゅうそう)を負いました。腰に巻いていた千人針で止血しましたが、1人だったので身動きがとれません。長く孤独な一夜でした。不安を紛らわすために、一晩中、懐かしい日本の歌を口ずさんでいました。
 無事、味方に助けられたものの、部隊の移動にはついて行けません。乾パンと自決用の手りゅう弾を渡され、自活生活が始まりました。イモのツルを食べ、雨水を飲み、歌を歌って自分自身を励ましました。目の前で衰弱死する仲間もたくさん見ましたが、私はどうしても日本へ帰りたかったのです。生死の境をさまよいながら、何とか終戦まで生き延びました。

軍隊にあこがれ、裏切られた青春時代。
佐野 正則さん(84)(広見東本町)
- 写真あり -
 映画の影響で軍隊にあこがれていたので、入隊が決まったときは素直に喜びました。でも、いざ入隊すると厳しい訓練の毎日。「面会になんて来なくていい」と強がっていたものの、戦地へ赴く前に、母と弟がごちそうを持って会いに来てくれたときは本当にうれしくて、家族のありがたみを強く感じました。
 戦地は中国。空襲のある昼を避け、真っ暗な夜の山道を延々と歩き続けました。靴はぼろぼろ、足首からつま先まで重度の水虫になり、歩くことさえ苦痛になりました。馬も転げ落ちるような危険な場所を、果てしなく歩くつらさに耐えられず、装備の手りゅう弾や帯剣(たいけん)で自害する仲間もいました。私も「早く死んでしまいたい」と思う瞬間が何度もありましたが、そんなときは、懐かしい家族の顔が思い浮かび、思いとどまったのでした。

「きさまらは軍の消耗品だ」ジャングルに捨てられた戦友たち。
市川 正義さん(85)(天間)
- 写真あり -
 開戦前から、英領北ボルネオ島タワオで熱帯林調査の仕事をしていました。開戦当初から10か月間の監禁生活を送り、1年半を軍隊で過ごしました。
 タワオから4か月かけてジャングルを通り抜け、ブルネイに進出した行軍では、7割近い戦友を失いました。雨季で降雨量が多く、ジャングルの道は泥沼と化し、マラリアや熱帯潰瘍(かいよう)で歩けなくなった兵隊は、その場に置き去りにされました。先を行く部隊に捨てられたも同然な兵隊たちが、装備品を捨て、わずかな食糧だけを身につけて道端に倒れていました。私たちが通ると「連れて行ってくれ」と足にすがりますが、「頑張れ、俺たちは先を急ぐ」と、苦しみつつ振り切って進みました。
 入隊時、「きさまらは軍の消耗品である」と部隊長に言われ、愕然(がくぜん)としました。この作戦で、消耗品のように捨てられた戦友たち。今も忘れられません。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 市川さん作の作戦行程図

運命を分けた運転免許。私が仲間の分まで生きたい。
藤井 三郎さん(99)(天間)
- 写真あり -
 ビルマ(現ミャンマー)で「インパール作戦」に従軍した私は、当時では珍しく自動車運転免許を持っていたので、大佐の運転手を任されました。ところが、行きは自動車で通れたジャングルの道が、いざ退却となったとき、雨季に入ったために何本もの川がはんらんし、行く手を阻んでいました。軍の本部を目指して何日もさまよい歩く中、次々と仲間が倒れていきました。大半が餓死か病死です。「今度はお前か…」助けたくても自分の命も危ない状況です。毎日敵の攻撃におびえながら、赤痢やマラリアにもかかり、フラフラになって本部にたどり着きました。
 仲間を置き去りにしたことは、今も悔やまれます。100歳を迎える私は、あのとき助けてやれなかった仲間の分まで、元気に生きようと思っています。


「…やっぱり、戦争はしちゃいけないよ」

 インタビューの最後に、皆さんは同じことを話してくれました。
戦争を知る人たちの思い、平和への願いを、私たちは忘れてはならないのです。
 これから先、未来のために。

終戦当時に引揚者の皆さんからお預かりした、通貨・証券などを返還しています
 戦争後に外地から引き揚げてきた皆さんが、税関などに預けた通貨や証券を返還しています。返還請求は本人のほか、家族でもできます。
問い合わせ 名古屋税関 清水税関支署
      田子の浦出張所 電話 33-2791
添付ファイル
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広報広聴課 (市庁舎8階北側)
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