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【広報ふじ平成19年】特集 モノは語る 戦争と平和

2007年、夏。
 夏になると、毎年のようによみがえってくる思いが、あなたにはありますか?物に満たされ、当たり前に明日を迎えることができる日常生活の中で、「平和」を意識することはありますか?
 8月15日は終戦記念日。
 時とともに、戦争体験を持つ人が少なくなり、戦争を知らない世代が多くなった時代に、終戦当時のまま残っているモノ。今回の特集では、戦時中の実物資料を紹介します。
 終戦から62年、何も言わずに時代の移り変わりを見てきたモノたちが、戦争を体験した皆さんの当時のエピソードとともに、私たちに語りかけます…。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 実物資料 「平和のための富士戦争展」実行委員会提供



手にとれば、よみがえる
夫・恒好さんの戦時中の品を戦争展に寄贈した
水口 ヒロ子さん(中里)
- 写真あり -

決意とともにかぶった飛行帽
 昭和23年に結婚し、初めて夫の航空兵時代の持ち物を見たときは、言葉が出ずに、「生きていてくれてありがとう。ご苦労さま…」という思いがあふれました。終戦があと少し遅かったら、夫は特攻隊として飛び立っていたでしょう。それを覚悟の上で、志願したのだと思います。ゴーグルにつけられたお守りを見るたび、胸がいっぱいになります。
 終戦後、物資が不足していて、夫は海軍の制服を着て通勤していました。当時を忘れないために、年に一度は必ずこれらを取り出して、2人で平和への思いを新たにしてきました。夫は10年前に亡くなりましたが、今後は、戦争を知らない人たちに見てもらい、戦争を知ってほしいと思います。


水口恒好(つねよし)さん 海軍航空隊の訓練の様子(手記から抜粋)
 昭和19年2月、第34期飛行練習生、いよいよ飛行機に乗って操縦訓練に励む。延長教育で実践部隊である台南航空隊へ移り、今までの訓練部隊とは違う、戦う部隊であることが身に染みた。低空飛行訓練で、電線はもちろん、川にかかった橋の下をくぐるのは、なれるまでは決死の訓練だった。空中戦訓練でも、零(ゼロ)戦の性能を十分に生かした上昇反転・宙返りの連続で、上官の仮想敵機の後ろへ回り優位な位置につくのは大変なことだった。
 この訓練は直接我が身の生死にかかるのだから、だれも必死に励んだものだ。訓練中に、操縦ミスで自爆してしまう仲間もあり、突然招集がかかって、救出・後始末活動に出動、搭乗員の肉片を計器盤からほじり出して回収する場面もあった。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 水口恒好さん
( 写真説明 ) 零戦(零式艦上戦闘機)で使用した皮手袋



忘れられない記憶…
中国・吉林(きつりん)女学校に通っていた
村上 好子さん(本市場)
- 写真あり -

命がけで海を渡った卒業証書
 戦時中は、一家で満州にいました。私は、女学校の学徒動員のため家族と離れて寮生活をし、朝から晩まで体中火薬まみれになりながら、工場で爆弾をつくっていました。
 敗戦を知ったのは、徹夜での作業中でした。すぐには信じられませんでしたが、寮へ歩いて帰る途中、中国人の子どもから石をぶつけられ、つばを吐きかけられ、「これが負けたということか!」と思い知りました。
 その日、講堂に生徒が集められ、「何かあったときだけ飲みなさい」と、先生から小さな包みを渡されました。後で包みは回収されましたが、そのとき初めてその中身が青酸カリ(猛毒)だったことを知りました…。
 終戦後も、危険な状態は続きました。夜になると、銃を持ったソ連の兵隊が日本人女性を捜しに来たのです。私たちは頭を丸刈りにして、男のような服装をし、夜は天井裏などへ隠れる生活が続きました。見つかって連れて行かれた人の叫び声が忘れられません…。60年以上たった今も、追いかけられ、おびえて必死で隠れる夢を見ます。
 そんな状況の中でも、先生は私たちに卒業証書を手渡してくれました。倉庫の中でひっそりと行われ、とても卒業式と呼べるものではありませんでしたが、本当にうれしかったです…。
 終戦から2年後、ようやく両親と帰国するとき、乗船時の持ち物検査であらゆる物が没収されましたが、この卒業証書だけはリュックの一番底に入れたので、持ち帰ることができました。
 戦争によって、幸せや希望は消され、大切な家族も離れ離れになりました。戦争は二度と繰り返してはならないと、強く思います。
*卒業証書は個人所有です。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 卒業証書
( 写真説明 ) 学徒動員のときの好子さん(旧姓:大芝)



千人針
 1,000人の女性が赤い糸で一人一針ずつ布に結び目を縫い、出征する人の無事を願って持たせた物。「虎は千里を行って千里を帰る」と言われることから、縁起を担いで虎の絵を描いたり、「死線(4銭)と苦戦(9銭)を乗り越える」という意味で、5銭と10銭銅貨を縫いつけたりしました。腹に巻けば銃弾よけになると考えられていました。
- 写真あり -


「祝・出征」ののぼり
 当時、20歳以上の男性には徴兵検査を受ける義務があり、軍隊から召集令状が来て出征することは、めでたいこととされていました。出征する人を送るときは、家の前や駅で「祝・出征」や「祈・武運長久」というのぼりを立て、家族や友人、近所の人が日の丸の旗を振り、「万歳(ばんざい)」と盛大に見送りました。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 実物資料 「平和のための富士戦争展」実行委員会提供


インパール作戦従軍兵の皮バッグ、水筒、背嚢(はいのう)(リュックサック)
 インパール作戦(昭和19年)で、日本軍は占領していたビルマ(今のミャンマー)から、インド方面への進出を計画しました。しかし作戦はきわめて難航し、日本軍は雨期のジャングルの中で、飢えとマラリア、敵軍からの攻撃に苦しみながら退却しました。参加した8万6,000人のうち、生き残った兵士はわずかでした。
- 写真あり -


兄から聞いた体験を語る、寄贈者の
斉藤 繁(しげる)さん(高島町)
- 写真あり -

「穴のあいた背嚢」
 ジャングルを行軍中に敵軍の戦車が攻めてきたとき、兄は慌てて背嚢(はいのう)で頭を覆い、地面の穴に逃げ込みました。そのとき敵の銃弾が兄の頭上をかすめ、背嚢に穴(写真)があいたそうです。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 穴のあいた背嚢



あなたにも、見て、聞いて、感じてほしい…戦争の実態。
■富士の語りべの会
 戦争体験を語り継ぎ、それを記録に残しておこうと平成元年に発足した会です。
 現在は、2か月に1度、吉原公民館で定例会を行い、戦争体験を語り合っています。希望があれば出前講座も行います。
問い合わせ
 橋口 方 電話・ファクス 51-8621

■2007平和のための富士戦争展
 ことしで20回目を数える、平和のための富士戦争展。今回ご紹介した実物資料の展示のほか、読み聞かせや歌、語りべのコーナーなどがあります。
 とき 8月10日(金曜日)〜15日(水曜日) 9時〜17時
 ところ ロゼシアター展示室
 問い合わせ 平和のための富士戦争展事務局(富士市職員組合) 電話 55-2893

■終戦当時の引揚者の皆さんへ、通貨・証券などを返還しています
 終戦後に外地から引き揚げてきた皆さんが、税関などに預けた通貨や証券を返還しています。返還請求は本人のほか、家族でもできます。
問い合わせ
 名古屋税関清水税関支署田子の浦出張所
 電話 33-2791

■ビデオや16ミリ映画フィルムの貸し出しを行っています
 広報広聴課では、戦争や平和について考える機会を提供するため、視聴覚資料の貸し出しを行っています。
問い合わせ
 広報広聴課(市役所8階)
 電話 55-2700 ファクス 51-1456


 2007年、夏。
 あなたが感じたこと、それは…
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広報広聴課 (市庁舎8階北側)
電話:0545-55-2700 ファクス:0545-51-1456
メールアドレス:kouhou@div.city.fuji.shizuoka.jp
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