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【広報ふじ平成17年】核兵器のない世界をつくりたい。 核兵器廃絶平和都市宣言20周年

核兵器のない世界をつくりたい。 核兵器廃絶平和都市宣言20周年

ことしは広島・長崎への原爆投下、終戦から60年。
そして、富士市が核兵器廃絶平和都市宣言を行って20年。
今、私たちが願うことは−
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( 写真説明 ) 米の宮公園の「被爆クスノキ2世」

 米の宮公園の一角に、2本の若いクスノキが植えられています。この木の親は、長崎県にある「被爆クスノキ」。
 昭和20年、長崎に原子爆弾が投下されたとき、親のクスノキは爆風で枝や葉が落ち、真っ黒に焼け焦げ、幹には大きな裂け目ができました。「放射能を受けた土地に、今後70年間は草木が生えない」とまで言われていました。
 しかし、しばらくしてクスノキは新芽を吹き出してよみがえり、終戦後、懸命に生きる人々に希望を与えてくれました。
 核兵器廃絶平和宣言都市である富士市は、長崎からその「被爆クスノキ」の苗木を授かり、平成13年8月9日、「長崎原爆の日」に、平和への願いを込めて植樹しました。
 それから4年、富士市の「被爆クスノキ二世」はすくすくと育ち、きょうもまぶしく葉を輝かせています。
 終戦から60年、市が核兵器廃絶平和都市宣言を行って20周年を迎えることし、核兵器の恐ろしさ、平和の大切さについて、一緒に考えてみませんか。
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( 写真説明 ) 植樹の様子
( 写真説明 ) 4年前に植樹されたときは、まだこんなに小さかった「被爆クスノキ2世」。今も、富士中央小と富士第一小の子どもたちの手で、大切に守られています。


核兵器廃絶平和宣言都市として
              核兵器廃絶平和都市宣言

 戦争の惨禍(さんか)をなくし 世界の恒久(こうきゅう)平和を実現することは 全人類の願いであり 世界で初めての被爆体験を持つ日本国民の悲願である
 しかしながら 核軍備拡大競争は 依然として進み 平和に対する 深刻な脅威 (きょうい)と 戦争の危険は後退していない
 富士市は 平和憲法のもとで 平和で明るい生活を享受(きょうじゅ)するため 市民憲章を制定し 市民の行動原理として培(つちか)ってきている
 富士市民は 戦争をなくし 真の平和を実現するための努力を明らかにし 富士山
のように 広く 美しく 高く たくましく 正しく生きることを悠久の理想として
 非核三原則を遵守(じゅんしゅ)し すべての核兵器の廃絶を求めることを市民の総意とする平和都市を ここに宣言する

                        昭和60年11月19日 富士市
 昭和60年11月19日、富士市は、核兵器の廃絶と戦争のない平和な社会の実現に向けて、市として核兵器廃絶と平和への願いを内外にあらわした「核兵器廃絶平和都市」を宣言しました。

 市では、平和都市宣言後、核兵器廃絶平和都市宣言塔やモニュメント(上)の設置、啓発品として花の種(下)などの配布など、宣言都市のPR活動に努めています。日本非核宣言自治体協議会にも加入し、核実験を行う国々に対して抗議文を送付するなどしています。
 また、宣言の内容を具体的に実行しようとする市民団体により、戦争の悲劇を風化させず、平和な社会を願う活動が繰り広げられています。
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( 写真説明 ) モニュメントと花の種

・・・平和に関するこれからのイベント・・・
●2005年平和のための富士戦争展
 8月10日(水曜日)〜15日(月曜日)ロゼシアター展示室

●第10回平和へのメッセージ
 8月13日(土曜日) ロゼシアター小ホール

●第16回親と子の広島平和バスツアー
 8月19日(金曜日)〜21日(日曜日)2泊3日
 広島平和記念資料館、原爆ドームなどを見学

●核兵器廃絶平和都市宣言二十周年記念事業
 12月3日(土曜日)、4日(日曜日)ロゼシアター
 合唱「ぞうれっしゃがやってきた」ほか

問い合わせ
核兵器廃絶平和富士市民の会事務局(富士市職員組合)電話 55-2893

昨年、「親と子の広島平和バスツアー」に参加した
小林 慧己(さとみ)さん(吉原第三中学校3年)

被爆地に行って知った原爆の恐ろしさ
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 原爆について、以前から興味を持っていて、図書室で調べたこともありました。その悲しい事実を知れば知るほど、広島へ行ってみたいと強く思うようになり、このツアーに参加しました。
 ツアーでは、平和記念資料館、平和公園、原爆ドームなどを見学しました。最も見たかった平和記念資料館では、正直なところ「怖い」という思いが先に立ち、ショックで言葉が出ませんでした。実物から感じる原爆の恐ろしさは、私が本で見て抱いていた印象とは、だいぶ違っていました。
 このツアーで、被爆地の様子を自分の目で見て、戦争や原爆の恐ろしさを強く感じることができました。ぜひ、友達にも見てほしいです。
 一日も早く、世界から核兵器が消えてほしいのはもちろん、人殺しや差別がなくなってほしいと思います。一部の人だけでなく、みんながお互いを大切にすることで、平和な世界になるのではないでしょうか。
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( 写真説明 ) 昨年のバスツアー


昭和20年8月6日、広島市に原爆投下。そのとき私は…
衛生兵として、広島市でけが人の応急救護に当たった
平柳 晃(あきら)さん 81歳(中里)

一瞬で、街が焼け野原に…
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 午前8時15分、兵舎での朝礼が終わった後、ふと空を見上げると、空襲警報もないのに米軍のB29爆撃機2機が対向するように飛んできて、白い落下傘のようなものが落とされたのが見えました。
 ほどなくして、稲光に何倍も熱を加えたような光が空一面に広がり、その直後、雷のような音とともに、家のはりが吹き飛ぶくらいの爆風。きのこ雲が立ち上り、やがて黒い雨が降ってきました。きれいだった街は、一面焼け野原となり、魚が焦げたような何とも言えないにおいが立ち込めていました。
 私たちは、焼け残ったトタンなどを組んでつくった仮の診療所で、救護を行いました。軍医と衛生兵の5人一組で、10日間、朝から夕方まで休む暇もなく、1日に約50人の患者を診ていました。けがのほとんどは、ひどいやけどです。皆自分で歩いて来ましたが、かなり痛かったと思いますよ…。でも、手当てと言ってもちゃんとした薬はなく、消毒して軟こうを塗り、ぼろ切れを当てるくらいしかできませんでした。夏ですからすぐに化膿(かのう)して、やがてうじ虫がわいてしまうんですよ…、もう、手がつけられませんでした。
 戦時中の記憶は、ふだんも心から離れませんが、毎年、夏になると特に強く思い出し、つらくなります。

広島で通信兵として活動、被爆後救助活動に携わった
永井 登吉(なりよし)さん 79歳(松岡)

助けたくても助けられない、惨めさ
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 原爆が投下された瞬間、私は兵舎の一階で寝ていました。兵舎の半分は爆風でつぶれ、下敷きで亡くなった人もいましたが、私は幸いにもほとんど無傷でした。
 私たちは原爆投下直後から、軍の命令により、街で救助活動を始めました。ある人が「兵隊さん、水をください」と言うので、提げていた水筒から水をあげました。ところが、飲んだ途端に死んでしまったのです。びっくりして、それからは、水を求められても、絶対にあげませんでした。避難場所で人々に分ける食糧もなく、水さえあげられず…何もできなくて、惨めに思うばかりでした。その人たちが後にどうなったのかと思うと、心が痛みます。一番心に残って離れないのは、人形かと思って見たものが、真っ黒焦げになった赤ちゃんだったことです。戦争、原爆は、何の罪もない子どもたちまでも巻き込んでしまったのです。
 活動の最中、爆心地付近を歩き回って放射能を浴びたからか、血便が出て驚きました。仲間の中には、おふろに入ると髪の毛が抜け落ちてしまった人もいました。結局、部隊の半数が亡くなりました。
 戦争や原爆の話は、ふだん人に話すことはありませんが、こうして伝えることで、若い人にも戦争の惨めさや平和の大切さをわかってもらえれば、と思います。


被爆者として、平和の大切さを伝えたい。
9歳のとき広島で被爆し、現在「原水爆被害者の会」富士地区支部代表を務める
西本 順明(よりあき)さん 69歳(三ツ沢)

子ども心に突き刺さった悲惨な光景
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 戦時中、私が通っていた己斐(こい)国民学校は、校庭全体がサツマイモ畑にされていて、私たちはあの日も農作業をするために朝7時に登校し、畑に出ていました。突然、空から白い落下傘が落ちてくるのが見えて、みんなで眺めていると、突然それが空中で爆発しました。その直後の記憶は、ほとんどありません。気がついたら、学校近くの防空壕(ぼうくうごう)の中にいました。
 幸いにも自宅は被害を受けず、家族4人とも無事でほっとしました。次の日から、父親を含め大人たちは、街の片づけに出かけました。私たちが家にいると、やけどで焼けただれた姿の人たちが、次から次へと「水をください」と言って家の中に入ってきて驚きました。
 また、死体を焼くのを見に行ったことを覚えています。死体を河原に並べて、交互に積み重ね、油をかけて焼くという作業…、目に焼きついたまま離れません。

「原水爆被害者の会」の活動
 「原水爆被害者の会」は、ことしで設立から47年目を迎えます。私は11年ほど前から、会の活動に主に携わるようになりました。主な活動は、国家補償の援護法の実現要求や、被爆者の健康診断の徹底、平和について考えてもらう事業、被爆して亡くなった人の慰霊及び追悼式などを行うことです。
 特に、昨年8月にロゼシアターで行った「原爆と人間展」は、とても意味のあるものでした。「核兵器のない世界をつくっていこう」という主旨のもと、原爆の写真だけでなくビデオ映像を加えて、より現実のものとして皆さんに実感してほしいと考えました。市内では初めての試み、しかも少人数での手探りの運営で苦労しましたが、私たち被爆者の強い思いを伝えていかなければと思い、精一杯の力を注ぎました。

来場者の反応に手ごたえ
 来場者の皆さんは、被爆してボロボロになった人などの悲惨な姿を見て、思わず顔を背けてしまいました。その中で、「戦争や原爆の悲惨さがよくわかりました」「またぜひ企画してください」という感想をいただき、企画の成果を実感しましたね。特にうれしかったのは、親子連れなど、子どもがたくさん来てくれたことです。子どもたちは、ビデオ画面の前に座り込んで、夢中になって見ていました。私は、子どもたちに「戦争は絶対にしてはならないよ。特に核兵器はなくしていかなきゃ」と話しかけました。きっと伝わったと信じています。
 事実を知ってもらうことから、本当の平和を願う心が育っていくのだと思います。一人でも多くの人に平和の大切さを伝えるため、これからも活動を続けていきたいです。
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( 写真説明 ) 昨年の「原爆と人間展」

戦争や平和について考える視聴覚資料をお貸しします
ビデオテープ
 ・トビウオのぼうやはびょうきです
 ・ながさきの子うま
 ・君知ってる?首都炎上 アニメ東京大空襲
 ・はだしのゲン
 ・火垂(ほた)るの墓
 ・ヒロシマに一番電車が走った
                ほか

十六ミリ映画フィルム
 ・核戦争後の地球 第一部「地球炎上」・第二部「地球凍結」
 ・核戦争
 ・おこりじぞう
 ・おかあさんの木
          ほか

広報広聴課 電話 55-2700 ファクス 51-1456

 60年前、核兵器は、一瞬にして幾つもの命を奪いました。今もなお、後遺症や差別に苦しむ人たちがいます。その恐ろしさと悲しみを知る唯一の被爆国、日本。
 今も、核兵器に関するニュースは絶えず伝えられています。地球上から、恐ろしい核兵器が消える日は来るのでしょうか。
 「平和」と聞いて、皆さんは何を思いますか。
戦争のない世界?核兵器のない世界?
 私たち一人一人が、「平和」のためにできることがあるはずです。例えば、お互いを思いやる気持ちを持つこと、命を大切にすること。暮らしの中で、あなたが育てることができる「平和の種」を探してみませんか。
添付ファイル
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