皆さんは、「開国」と聞いて何を思い浮かべますか?「黒船」「ペリーの来航」を挙げる人が多いのではないでしょうか。
日本の開国を求め、外国の船が相次いでやってきた幕末、富士市でも外国船とかかわるできごとが起こりました。それは、宮島沖でのロシア軍艦ディアナ号の遭難です。
地震と津波、そして船体の沈没という悲劇の中、富士市民とロシア人との人間愛あふれる交流が生まれました。同時に、日本の近代化・国際化に貴重な足跡を残したディアナ号の軌跡こそ、これまであまり語り伝えられなかった「もう一つの開国」と言えるのではないでしょうか。
2005年は、日本とロシアが友好関係を結び150周年を迎えます。
今回は、ロシアとの友好の幕あけとなった、ディアナ号と富士市の歴史を紹介します。
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( 写真説明 ) 三四軒屋緑道公園のディアナ号のいかり
幕末、富士市が大きな歴史の舞台に
ディアナ号の下田来航と大地震
嘉永(かえい)7年(1854年)11月4日、後にいう我が国最大級の安政の大地震が起きました。この日、下田港には、日本との友好関係を求めるために、プチャーチン提督のロシア軍艦ディアナ号が入港していました。
ディアナ号は、地震による津波で大破し、船の修理のため、戸田港に向けて出航しました。しかし、運悪く途中で嵐に遭い、船は宮島沖まで流されてしまいました。
地元の人々による命がけの救助
漂着したディアナ号を発見した人々は、船員たちを救うために命がけで救助しました。大荒れの海の中で、岸に向かうカッター(*)を波打ち際でしっかりと支え、三日間かけて約500人の船員全員を助け出しました。
そして、自分たちも地震で大きな被害を受けているのにもかかわらず、彼らのために、悪天候をしのぐ小屋をつくったり、毛布や着物、食糧などを持ち込んだりして手を差し伸べました。
中には、目の前で着物を脱ぎ、体の冷えきった船員に着せてあげた人もいました。
プチャーチンは、船員を救った人々の親切心を、生涯忘れなかったといいます。
*艦船に積み込まれるボート
造船技術の伝来
その後、帰国用の帆船として、戸田村で日本初の洋式帆船「ヘダ号」が建造されました。造船に携わった人たちは、目をみはる思いで洋式帆船の建造法を学び、これが日本近代造船の発祥となりました。
いかりの引き揚げ
昭和29年と昭和51年、沈没したディアナ号のいかりが引き揚げられました。
いかりは、全長4.2メートル、重さ約3トンという巨大なもので、一つは戸田村に寄贈され、昭和51年に引き揚げられたものは、富士市の歴史を語る貴重な文化財として、三四軒屋緑道公園に保存されています。
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( 写真説明 ) ディアナ号遭難想像図(市立博物館蔵)
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( 写真説明 ) 昭和51年に行われた、いかりの引き揚げの様子
富士市で起きた大きな歴史を知り、郷土愛を高めてほしい
ディアナ号について語る 市立博物館・加藤 昭夫 館長
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●歴史にロマンを感じます
ディアナ号の遭難には、下田での大地震と、戸田へ向かう途中の難破という偶然が重なりました。歴史に「もし」はありませんが、もしこの偶然が重ならなければ、富士でのドラマも生まれませんでした。また、ディアナ号が漂着したときも、外国人との接触が禁じられていた時代にもかかわらず、それを乗り越えての救助活動と温かい交流が行われました。
ディアナ号の研究を重ねていく中、この偶然性と人間愛の深さに、ロマンを感じるようになりました。昭和63年のディアナ号探査会の調査では、残念ながら船体は見つかりませんでした。しかし、今でもどこかに沈んでいるかもしれない船体や、ディアナ号の52門の大砲のゆくえなどを追ってみたいと思いますね。
●郷土愛を高めるきっかけに
下田での条約締結、富士での救助活動、戸田での造船技術の伝来など、ディアナ号は幕末の国政や日本の近代化に大きな影響を与えました。このように大きな歴史を、ぜひ多くの皆さんに知っていただきたいと思います。そして、すばらしい歴史の残る富士市に誇りを持ち、郷土愛を高めていただけるとうれしいですね。
日露友好150周年記念特別展
ディアナ号の軌跡 −日露友好の幕開け−
1月15日〜2月13日 市立博物館
望月 美佐子 さん・達美 (たつよし) さん (五貫島)
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( 写真説明 ) 親子で史跡めぐりに参加した
本当の歴史を学びました
家の近くにある公園にディアナ号のいかりがあることから、小さいころに興味を持ち始め、自分で少しずつ調べていました。6年生になり、学校の総合学習でディアナ号のことについて、資料を集めたり、インターネットで調べたり、また、博物館へ勉強をしに行ったりすることで、さらに興味を深めていきました。
今回参加した、ディアナ号関係史跡めぐりでは、ディアナ号がなぜ修理に戸田港を選んだかなど、今までわからなかったことを学びました。中でもプチャーチンの外交姿勢には驚きました。開国で有名なアメリカ人ペリーが強硬派だったのに対し、プチャーチンは穏健派だったのです。教科書で学べないことを知り、とても有意義な時間が過ごせました。
当時の人々の優しさや、心の温かみを改めて知ることができました。市民の皆さんが、ディアナ号に親しみを持てるような詳しい資料や情報が、もっと富士市にもあるといいですね。
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( 写真説明 ) プチャーチンの娘、オリガ・プチャーチナが宿泊した松城邸(戸田村)
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( 写真説明 ) 説明を熱心に聞く史跡めぐりの参加者(松城邸)
日本とロシアの国交が結ばれてから150年。ディアナ号の模型や友好の像の寄贈、ロシア大使や関係者の訪問など、ディアナ号がかけ橋となり今までにたくさんの人や物の交流が行われてきました。
こうして今日に至るまで、友好の輪が広がりを見せています。
日ロ友好協会事務局長・保科 はる子 さん(松岡)
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さらなる交流を目指して
日ロ友好協会は平成5年8月28日に発足し、現在、約50人の会員で活動しています。これまで、ロシアの少年野球、サッカーチームを招いて市内の子どもたちとの交流や、少年少女合唱団や演奏家を招いてコンサートを開催するなど、民間交流を重ねてきました。
また、ロシアへ2度訪問して多くの人々と交流することで、国境を越えたきずなを強めていきました。
ロシア人の魅力は明るく朗らかで包容力があるところです。ゆったりと落ちついていて大陸的な人間像を映し出してくれます。
下田や戸田に比べるとディアナ号のことが、市内であまり知られていないのはとても残念です。150年前に富士市の先人は、500人ものロシア人を荒れ狂う海の中から救出し、温かくもてなしています。ロシアとの交流の第一歩が富士市から始まったと言えるのではないでしょうか。
今後はディアナ号の船員の子孫と、市民の交流を実現させることが私たちの夢ですね。
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( 写真説明 ) 広見公園内にある友好の像
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( 写真説明 ) 昨年11月、ディアナ号ゆかりの地を描きに来たロシア人画家ナターリアさん