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【広報ふじ平成16年】特集:あなたに知っていてほしい 戦争と平和

戦争と平和

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( 写真説明 ) 戦争中、軍の飛行場があった富士南地区(現在)
( 写真説明 ) (昭和20年代)
 皆さんは、戦争中、富士南地区に陸軍の飛行場があったことを知っていますか。そして、中国から強制連行された人たちがいたことを。

富士市に陸軍の飛行場
 富士南中学校の北側から、三四軒屋までの一帯は、ほかの地区とは違い、碁盤の目のように整備されていることに、皆さんはお気づきですか。
 昭和19年、この地域に陸軍が飛行場の建設を始めました。
 当時、五貫島に住んでいた人たちは、軍の命令により、強制的に移転させられました。

強制連行された中国人
 昭和19年、中国から強制連行されてきた504人が「興亜建設隊」に編入され、飛行場建設作業に従事させられました。
 戦争末期のことですから、満足な食糧はなく、朝は雑炊、昼・夜はパンのようなマントウという粗末な食べ物だったようです。1日12時間の過酷な労働。住まいもきちんとしておらず、劣悪な生活環境で働かされていたようです。
 そして、52人が亡くなりました。
(「中国人興亜建設隊物故者記」より)

不戦の誓いを後世に伝える
 田子浦海岸の松林に囲まれた中丸共同墓地の一角に「中華民國人興亜建設隊故歿者之碑」と刻まれた白く大きな碑(写真1)があります。この碑の側面には亡くなられた52人の名前が記されています。また、その脇には「中国人殉難者慰霊碑」と刻まれた黒い副碑(写真2)があります。
 昭和23年、碑が建立され、慰霊祭が行われました。その後、中丸浜区の人たちが中心となり、手厚く供養されてきました。そして、平成2年、地元の人たちの熱意から、副碑が建立され、ことしで15年を迎えました。
 霊を慰めるとともに、戦争のもたらす悲惨さを後世に引き継ぎ、二度と悲劇が起こらないようにという願いを込め、毎年7月、慰霊祭が行われています。

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( 写真説明 ) 写真1:「中華民國人興亜建設隊故歿者之碑」
( 写真説明 ) 写真2:中丸浜の共同墓地にある「中国人殉難者慰霊碑」

語る

富士飛行場や中国人殉難者について、お話を聞いてみました。

軍の命令により強制的に移転
 私たちは、昭和5年生まれの同級生で、同じような戦争体験を持っています。
 私たちのうち3人は、飛行場建設により、家を移転させられました。戦時中なので資材などはなく、取り壊した家の柱などをリヤカーで何往復もして運び、それを使って新しい家をつくりました。周りがみんな同じ境遇でしたから、手伝ってくれる人もなく、ほとんど家族だけでつくり、大変でした。

飛行場で働く中国人殉難者
 海岸の方でトロッコを押すなど、作業をしている中国の人たちを見ました。粗末な物しか配給されていなかったようで、レンゲなども食べていました。重労働をさせられ、栄養状態が悪いためか、顔は青ざめていました。見ていて、とてもかわいそうでした。

今からは想像もつかない時代
 戦争末期、学校は軍事色が強まり、勉強よりも戦争に役立つことをしていました。勤労奉仕のため、飛行場建設の手伝いもしました。働いていると、アメリカ軍の機銃掃射を受け、側溝などに潜って隠れました。操縦士の顔がはっきりと見え、恐ろしかったです。 
 小学校卒業後は学徒動員により、飛行場の整備兵になるために学ぶ人、軍需工場へ働きに行く人などさまざまでした。何になりたいかなど、自分たちに選択権はなく、戦場に行って死ぬことに、疑問を抱いていませんでした。
 今からは想像もつかない時代でしたね。

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( 写真説明 ) 富士飛行場で飛行機を整備する整備兵(曽根田正さん所蔵)
( 写真説明 ) 昭和19年、富士川河川敷。飛行場で働く仲間たちの集合写真(曽根田正さん所蔵)
( 写真説明 ) 戦争中、飛行場で作業した経験のある時田 武(たけし)さん(森島・左上) 大塚 肇(はじめ)さん(宮島・右上)曽根田 正(まさし)さん(宮島・左下) 石田 久夫(ひさお)さん(宮島・右下)

地域の人たちの温かさ
 私たちは、戦地に出兵したり、軍需工場で働いていたりしてこの地にいなかったので、中国人殉難者のことは直接知りません。大変劣悪な環境の中、労働させられていたようです。話を聞くと、日本の暗い歴史に心が痛みます。
 しかし、粗末な食べ物しか与えられていなかったことを見かねて、近所の人が軍の目を盗んで、おむすびなどをあげていたようです。戦争という時代の中でしたので、十分なことはしてあげられなかったと思いますが、地域の人たちの温かさを感じます。

後世に引き継ぐ活動を
 私たち中丸浜悠容クラブは、中国人殉難者慰霊碑の周りを、盆・彼岸・暮れなど、定期的に清掃しています。清掃活動は、始めてから40年ほどたちます。 
 以前、地区の集まりの中で、遺族の人が南方の地を訪れたとき、その土地の人たちが日本人戦死者のために、線香を上げ、霊を弔ってくれていたという話を聞きました。故郷に思いをはせ死んでいった日本人を、ほかの国の人たちが手厚く供養してくれていることを知り、心が熱くなりました。
 私たちも、この地で亡くなった52人の中国人の霊をきちんと慰めていかなければと、強く感じました。
 この思いは、戦争を知る私たちの世代で終わることなく、後世にも引き継いでいきたいです。中丸浜区長が実行委員長となり行う慰霊祭には、区の小中学生も参加しています。慰霊祭を行うことで、その意味を子どもたちに伝えていければと思っています。

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( 写真説明 ) ことし7月4日に行われた「中国人殉難者慰霊祭」の様子
( 写真説明 ) 中国人殉難者慰霊碑の周りの清掃活動を続けている 遠藤 利政(としまさ)さん(中丸・左) 味岡 政彦(まさひこ)さん(中丸・右)

語り継ぐ

次の世代に伝えていく
 今、戦中や戦後の貧しい暮らしを体験した人は、どのくらいいるのでしょう。日本の総人口の約7〜8割は戦争を知らない世代。
 本や資料を読んだり、テレビやビデオを見たり、戦争を知る方法はいくつかあります。
 しかし、実体験として人から直接聞いた話は、聞く人の心に深く刻まれることでしょう。
 戦争を知る人は、富士の街で起きたことなどを、話してあげてください。戦争について語り継いでいくことが、戦争を知る世代の人たちの大きな役目ではないでしょうか。

戦争当時、満州にいました
戦後、満州から引き揚げてきた・佐野 日出子(ひでこ)さん(久沢)
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死と隣り合わせの生活でした
 私は、教師をしていた父の仕事のため、昭和16年に今の中国、満州に移り住みました。12歳のとき、終戦を迎えました。戦争中は比較的平穏な生活でしたが、終戦後は生活が一変し、毎日のようにロシア兵が私たち日本人の住んでいる地域へ略奪にやってきました。彼らは、日本人が怖いので、銃剣を胸の前に突きつけてきます。彼らが来ると、みんなが逃げ、隠れました。あの当時、毎日が死と隣り合わせの生活でした。いつも胸には青酸カリの包みを入れ、襲われそうになったときには、すぐそれを飲むように教えられていました。
 昭和21年に日本へ引き揚げてきましたが、よく家族みんなが無事に帰ってこられたと思います。

慰霊碑を見たとき、涙が出ました
 ことしの3月、戦争にまつわる場所を回る見学会に参加しました。そのとき、富士に中国人殉難者の悲しい歴史があることを初めて知りました。慰霊碑を訪れたとき、あの当時のことが思い出されました。終戦後、人が亡くなっている場面をたくさん見ました。その遺体は、攻撃から身を守るために掘った溝の中へ入れられるだけでした。寒さのため地面が凍りついていたので、何もできませんでした。かつて中国から連れてこられ亡くなった人たちを、そのまま忘れ去ることなく、碑を建て、霊を弔っていることを知り、とても心が和みました。碑を見たとき、胸がいっぱいで、しばらくその場所から離れることができませんでした。
戦争の悲惨さを伝えていきたい
 私は今、「富士の語りべ」の会という戦争体験を話す会に入っています。今の人たちに、戦争の悲惨さ、つらい体験を伝えていきたいと思っています。 


富士飛行場と中国人殉難者の話を聞いて

富士南中学校2年・伊藤 宝(たから)さん(宮島)
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昔、戦争の話を祖母から聞いたことがあります
 僕は、小学生のとき、飛行場があったことを先生から聞いて、知っていました。戦争についても、小学生のときに戦争についての話を聞いてくるという宿題があり、祖母から聞いたことがあります。食べる物がなく、大変だったという話が心に残っています。そのとき、「僕は今の時代に生まれ、恵まれているな」と思ったのを覚えています。でも戦争について詳しくは知りません。
 飛行場や中国人殉難者の話を聞き、事実を知ることは大切だと思いました。みんなが戦争を知り、みんなに戦争が起こらないようにと感じてほしいと思います。 


富士南中学校2年・塩川 侑希(ゆうき)さん(横割5)
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みんなに戦争について知ってほしい
 私は、戦争について詳しく知らず、怖いというイメージしかありません。昔、学校のあたりに飛行場があったことや中国人殉難者の話も、初めて知り驚きました。飛行場があったなんて、今からは全く想像がつきません。中国人殉難者の話を知り、日本がしたことに悲しい気分になりました。二度とそのようなことが起こらないでほしいと思いました。
 私もそうですが、私と同じ年ごろの人たちは、戦争についてよく知らない人がほとんどだと思います。富士であったことや戦争について、みんなに知ってほしいです。

知る

戦争を知り、平和を知る
 戦争を知らない人たちは、まず知ることが大切です。戦争について知ることで、平和を感じることができるのではないでしょうか。
 毎年8月は、戦争と平和に関する催しなどが多く行われます。
 戦争について知る機会が訪れたら、ぜひその機会を大切にしてください。そして、あなたが知ったことや感じたことを、周りの人に話してみてください。

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( 写真説明 ) 昨年の「平和のための富士戦争展」の様子 

毎年開催されている「平和のための富士戦争展」の昨年の来場者の感想から
 平和な時代に生まれ、苦労など知らないところで育ちました。戦争で犠牲になった人たちがいるから、今平和に暮らしていけるのだと、改めて実感しました。(31歳)

 戦争というと、広島・長崎・沖縄というイメージがありますが、身近で起こった事実に改めて驚きました。8月6日・9日は、子どもと一緒に黙とうをしますが、戦争についてうまく子どもに語ることができません。私自身、戦争を身近に感じられない世代なので、戦争について知ることができてよかったです。(37歳)

 私が、今こうやって生活できていることが、どれだけ大きな幸せかということを知りました。戦争で戦ってきた人々の時代があるから、今の私たちの生活があるのだと思いました。(15歳)

 私たちの街でも戦争でいろいろな影響を受けたことを初めて知り、身近過ぎて少し怖くなりました。(12歳)

 戦争を過去として考えるのではなく、現実として受け止め、今、自分にできることは何だろうと考えました。(58歳)

 子どもに見せようと思い、連れてきました。とても怖がりましたが、教えていかなくてはいけないことだと思います。(35歳)

戦争や平和について考える視聴覚資料をお貸しします
ビデオテープ
◎証言 中国人強制連行
◎君知ってる?首都炎上 アニメ東京大空襲
◎火垂るの墓
◎ヒロシマに一番電車が走った
◎はだしのゲン       ほか

16ミリ映画フィルム
◎核戦争後の地球 第一部「地球炎上」・第二部「地球凍結」
◎おこりじぞう
◎おかあさんの木      ほか

問い合わせ先 広報広聴課 電話 55-2700

 戦後59年目を迎え、戦争体験を持つ人が減ってきています。
 戦争は怖いと感じるものの、身近ではなく、どこか遠い世界の話のように感じている人が多いのではないでしょうか。
 ことしの夏、家族や友だちと、戦争や平和について話し合ってみませんか。
添付ファイル
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