富士市 FUJI CITY Official Site

富士市
広報ふじ > 平成13年 > 平成13年8月5日 784号 > 【広報ふじ平成13年】特集 戦争と子どもたち

【広報ふじ平成13年】特集 戦争と子どもたち

 この8月15日で56回目の終戦記念日を迎えます。戦争では多くのとうとい命や財産が失われ、また、戦争のために人々は苦しい生活を送らなければなりませんでした。そのような中、子どもたちはどんな生活を送っていたのでしょうか。
 今回の特集のテーマは戦時中の子どもたちの生活。この特集を通じて戦争と平和の意味について考えてみませんか。

国民学校での授業
 昭和16年4月、小学校は国民学校と名を変え、
初等科6年、高等科2年の合わせて8か年が義務教育となりました。教科目は国民科、理数科、体練科、技能科及び実業科(高等科のみ)の5教科で編成。学校では軍事訓練や防火訓練も行われました。また、農繁期には休校となり、農作業の手伝いなど勤労奉仕に行かなければなりませんでした。
 空襲が激しくなると、そのたびに避難する生活となり、教室で授業していることが難しい状況となりました。終戦直前には、登下校をする児童の安全のため、分散授業を実施する学校もあったほどです。

労働力不足を補うため工場へ動員
 働き盛りの男性が兵士として出征し、労働力不足となったため、労働力として子どもたちの力が必要になりました。昭和19年には、中等学校、高等女学校、国民学校高等科の生徒まで動員されるようになりました。富士では主に東芝、大昭和、日産などの軍需工場へ動員されました。

富士の街にも疎開児童が
 戦況が悪化し、本土空襲が避けられない状況となると、大都市の子どもたちを地方へ分散させる学童疎開が進められました。学童の疎開は親せきなどへの縁故疎開を原則としましたが、縁故疎開のできない学童に対しては集団疎開が実施されました。集団疎開の対象となった学童は、国民学校初等科の3年生から6年生までの学童。疎開先では教職員も学童と一緒に共同生活をしました。
 富士でも昭和19年、東京から集団疎開児童を寺院などで受け入れました。しかし、空襲がますます激しくなり、富士の街も決して安全ではなくなったので、昭和20年6月、学童たちは青森県に再疎開していきました。

戦時中の学校日誌(岩松小学校記念誌「巖松(がんしょう)」より抜粋)
昭和19年6月15日 5時30分警戒警報発令 12時40分空襲警報発令(初めて)      
8月12日 高2男※1 防空壕(ぼうくうごう)※2ヲ掘ル
 8月22日 疎開学校職員5名来校ス
  疎開児童荷物運搬手伝ヒノタメ最寄高等科児童及村内職員手伝ヒヲナス
昭和20年6月29日
  東京都荏原区中原国民学校集団疎開児童再疎開ノタメ送別式朝礼場
 7月14日 学校備品疎開
 7月16日 御影※3並ニ勅語※4謄本非常奉遷(ほうせん)→ 鵜無ヶ渕吉永第二国民学校へ
 7月25日 午前11時頃(ごろ)小型機数機隣村ニ来襲本村異常ナシ
 7月30日 警報発令 午前5時33分
  1 小型機早朝ヨリ多数来襲シ近接工場爆撃
  2 児童登校中止
  3 小型機再度来襲シ(11時50分)東芝工場襲撃ス
 (このころ空襲警報毎日のように発令される)
 8月15日 本日正午時局収拾ニ関スル重大放送アリ畏(かしこ)クモ詔書※5御下賜
  1 昭和20年8月14日
  2 聖上※6異例ノ御放送一億断腸熱涙シボル

※1…国民学校高等科2年生(現在の中学2年生)、※2…空襲から避難するために地面を掘ってつくった穴など、※3…天皇の肖像、※4…教育勅語、※5…臨時の大事に関して発せられる天皇の文書、※6…天皇のこと
- 写真あり -
( 写真説明 ) 東京都荏原区(現・品川区)からの疎開児童(学寮の本部が置かれた実相寺にて・栗山昭二さん提供)
( 写真説明 ) 戦時中、食糧増産のため田植えの勤労奉仕をする国民学校生(写真提供:市立博物館)
( 写真説明 ) もんぺをはいて登校する子どもたち(写真提供:市立博物館)


高齢者の皆さんが集まるふれあい・いきいきサロン「ひだまり」で、戦時中の生活の様子について、お話を伺いました。

防空ずきんを持って登校
 戦時中は、防空ずきんを持ち、わら草履やげたを履いて学校へ通っていました。女子の服装は、着物の生地を使ってつくったもんぺ姿。男子は国民服でした。学校の授業で、竹やりやなぎなたの訓練をしたこともあります。短くなった鉛筆は竹でキャップをつくり、最後まで使い切るようにしました。印象に残っているのは、国民学校の卒業式で、「蛍の光」は外国の歌だからということで歌えなかったこと。かわりに「海ゆかば」を歌った記憶があります。

家ではすいとんやサツマイモを食ベる
 お弁当には麦の御飯を詰め、真ん中に梅干しを入れただけの日の丸弁当がほとんど。家では、すいとんやサツマイモの粉を固めた物をよく食べました。サツマイモのつるや野草も食べました。食べ物に事欠く状態でしたから、おやつどころではありません。砂糖も配給でしたので子どもが食べるあめを砂糖がわりに使ったこともありました。また、タケノコの皮を丸め、中に梅干しを入れて吸って、空腹を満たしていました。
 今泉には東京から疎開児童が来ました。家で飼っていたウサギを持ってくる子もいましたが、食べるものがなく死んでしまい悲しんでいた様子が思い出されます。
- 写真あり -


戦争が激しかったころの私の戦争体験
子どものころの戦時中の体験を、3人の皆さんに語っていただきました。

工場での勤労奉仕に明け暮れた女学生時代 鈴木恭子(やすこ)さん(72歳・富士岡)
- 写真あり -
学校を集合場所にして工場へ
 国民学校を六年で卒業した後、私は女学校へ進みました。
 昭和18年、女学校2年生のとき全員が勤労奉仕につくようになりました。当時私は清水市で生活していたのですが、働き手が兵士として出征してしまった家で農作業の手伝いをしたり、缶詰工場や縫製工場へ手伝いに行ったりしました。毎朝、学校を集合場所にみんなで出かけていきました。学校には朝集まるだけで勉強することはなかったのです。
 そして、戦争が激しくなっていった翌年の8月からは、家から直接近くの軍需工場へ行くことになりました。仕事は飛行機の羅針盤や昇降メータなどの部品をつくることなど。昭和20年になってからは、兵隊に出ている男の人のかわりに旋盤(せんばん)でねじを切ったり、鉄板をプレスしたりするなどの仕事にも携わりました。

家族との別れが頭をよぎる
 工場には防空ずきんと麦などを茶筒に入れた非常食を持っていきました。働いていた工場が空襲の標的にされることも考えられましたので、これが家族と一生の別れになるかもしれないという気持ちで毎朝家を出ました。空襲警報が鳴ると、急いで防空ごうの中に入り、仲間と歌を歌って励まし合いました。
 一緒に働いていた友人の一人が、母親のかわりに貯金通帳を家に取りに行って、焼夷弾(しょういだん)を受けて死んでしまったという悲しい思い出があります。沖縄から工場に来ていたある男の子が、出身の村の電話も何も通じなくなり、家族も村も全滅したのではと沈み込んでいる姿など、戦時中の体験した出来事は今でも決して忘れられません。戦争を通じ、命のとうとさを痛切に感じています。


食糧増産のために少年農兵隊へ参加 時田 武さん(71歳・森島)
- 写真あり -
雑木林などを開墾する毎日
 国民学校高等2年を卒業間近の昭和20年2月から1年間、「少年農兵隊」に入りました。入隊当時14歳。すぐ御殿場の板妻(いたづま)に行って訓練を受け、その後は富士宮の白糸にあった修練農場で集団生活をしながら、50人ほどの小隊で農道をつくったり、雑木林を開墾したりする毎日でした。富士宮駅から白糸までよく歩いて往復。富士地区での作業が多かったのですが、西は御前崎から東は伊東まで開墾ぐわを担いで行ったものです。
 隊での食事はコウリャンや大豆が入った御飯。量は少なく腹いっぱい食べられない毎日でした。イワシ一匹あればそれだけでうれしくなったものです。中にはつらくて夜に脱走する仲間もいるほどでした。

機銃掃射の恐ろしい思い出
 農兵隊で静岡の大空襲の焼け跡整理に行ったことがあります。そのとき静岡駅でアメリカ軍のグラマン機の機銃掃射を受けました。操縦士の顔がはっきりと見えるほどの低空飛行。自分のところへ目がけて打ってきたようで、とても恐ろしい思いをしました。同じように須津で作業をしていたときも、機銃掃射に遭いました。今思い出してもぞっとします。

少年農兵隊…正式名称は「甲種食糧増産隊」。食糧増産のために、学校卒業以前か直後の少年たちが集められ、軍隊式の訓練を受けるとともに、全国各地で開墾などの農作業に当たりました。
- 図表あり -
( 図表説明 ) 「飛行場での草刈り」(時田さんの日記から)
( 図表説明 )  国民学校生のとき、勤労奉仕で飛行場の草刈りに。刈り取った草は学校の畑に敷き、サツマイモなどをつくるための肥料としました。


縁故疎開で過ごした富士での1年間 吉川 敬三郎さん(66歳・石坂)
- 写真あり -
生活になじむまで苦労
 生まれ育ったのが東京の日本橋。戦争が激しくなってきた昭和19年の春、国民学校4年生のとき、伝法にある伯母(おば)の家へ縁故疎開しました。初めは両親と離れたストレスからか、東京にいるときにはしなかったおねしょをしてしまうほどでした。
 疎開中は、学校の仲間と一日も早く溶け込もうとしました。校庭の片隅には土俵があり、相撲を通じてほかの仲間と仲よくなりました。学校では燃料として使うために、茶畑でお茶の実を拾ったり、農作業の手伝いなどをしたりして過ごしました。そのころの遊びといえば敵味方に分かれての戦争ごっこ、将棋でこまの名前を軍の階級に変えて行う軍人将棋など。また、伯母の家では、朝登校前に畑仕事の手伝いなどをしました。東京では味わえない毎日の生活で心身ともにたくましくなった気がします。

どこも貧しく苦しい生活
 空襲で日本橋の家は焼けてしまい、家族が東京郊外の福生(ふっさ)町(現在の福生市)へ引っ越したので、昭和20年4月に再び東京へ戻りました。郊外といっても基地が近くて、上空で日本軍とアメリカ軍が交戦している光景を見ることもあり、戦場であることを実感させられました。
 戦時中はどこも貧しく苦しい生活でしたので、子どもながらにそれが当たり前と思っていましたが、今思うと大変な時代でしたね。

 終戦からはや半世紀以上が過ぎました。長かった戦争は、戦地での悲劇を引き起こしたことにとどまらず、国内で生活する子どもたちにも大きな影響を及ぼしました。
 毎年8月は戦争と平和に関する催しなどが多く行われます。この夏、家族や友人で、戦争や平和の意味を話し合ってみてはいかがでしょうか。


平和に関する視聴覚資料をお貸しします 広報広聴課 電話55-2700
◆ビデオテープ
・教えられなかった戦争 侵略・マレー半島(110分)
・証言 侵略戦争 人間から鬼へ、そして人間へ(43分)
・核戦争後の地球 第1部「地球炎上」(30分)
・核戦争後の地球 第2部「地球凍結」(30分)
・火垂(ほた)るの墓(90分)
・にんげんをかえせ(20分)
・君知ってる?首都炎上 アニメ東京大空襲(18分)
・はだしのゲン(90分)
・はだしのゲン2(90分)
・ヒロシマに一番電車が走った(30分)
・つるにのって とも子の冒険(27分)
・見上げればひまわり 千恵子さんとともに(30分)
・チェルノブイリ・クライシス 史上最悪の原発事故(57分)
・さよならカバくん(25分)
・おばけ煙突のうた(42分)
・十六地蔵物語(26分)
・沖縄 第1部「一坪たりともわたすまい」(75分)
・沖縄 第2部「怒りの島」(120分)
・おかあさんの木(20分)
・なっちゃんの赤いてぶくろ(18分)
・青い目の人形物語(30分)
・対馬丸(75分)
・かっ飛ばせ!ドリーマーズ カープ誕生物語(86分)
・一つの花(23分)
・おこりじぞう(28分)
・おかあちゃんごめんね(26分)
・トビウオのぼうやはびょうきです(19分)
・ながさきの子うま(26分)
◆十六ミリ映画フィルム
・核戦争後の地球 第1部「地球炎上」(30分)
・核戦争後の地球 第2部「地球凍結」(30分)
・おこりじぞう(27分)
・おかあさんの木(20分)
・100番目のサル(20分)
・核戦争(15分)
( )内は放映時間
※8月9日〜16日、23日〜27日は平和推進事業で使用するため、一部貸し出しができません。
添付ファイル
※PDFを初めてご覧になる方は、ソフト(Adobe Reader)のダウンロードが必要です。
「Get Adobe Reader」のボタンをクリックし、説明に従いAdobe Readerをダウンロードして下さい。
Get Adobe Reader
広報広聴課 (市庁舎8階北側)
電話:0545-55-2700 ファクス:0545-51-1456
メールアドレス:kouhou@div.city.fuji.shizuoka.jp
〒417-8601 静岡県富士市永田町1丁目100番地 電話 0545-51-0123 ファクス 0545-51-1456
E-mail kouhou@div.city.fuji.shizuoka.jp