ことしも8月15日の終戦記念日がやってきます。日本が戦争をしたということは、20世紀を生きる私たちが決して忘れてはならない大きな出来事の一つ。戦争経験者が集まり、戦争体験を語継ぐ「富士の語りべ」の会がことしで十周年を迎えました。語りべの皆さんの話を通じて、21世紀に向けて伝えていかなければならない戦争の恐ろしさと平和のとうとさにいて、一緒に考えてみませんか。
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( 写真説明 ) 核兵器廃絶平和宣言塔 昭和60年、富士市は核兵器廃絶平和都市宣言を行いました
「富士の語りべ」の会代表 橋口 傑(すぐる)さん(72歳・今泉)
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ことし10周年を迎えた「富士の語りべ」の会代表・橋口さんに、会のことや戦争体験のことなどお話を伺いました。
●会を始めたきっかけはどんなことからですか。
次の世代に戦争の事実を語り継ぎ、戦争とはどういうものかを伝えていくことは大切です。そのためには、戦争体験者の話を聞くだけにとどめるのでなく、その体験談を記録として残しておくことが大切だと考えました。そこで、同じ思いを持つ方々と協力し、10年前に会をつくりました。
●会はどのような形で活動しているのですか。
この会は中立の立場を保ち、戦争の事実を発表することに徹する立場をとっています。隔月で例会を開き、語りべさんに戦争の話をしてもらいます。語りべさんには自分の経験したことや見たことをそのまま話してもらうようにお願いしています。
また、語りべの会で発表したことを記録し、冊子にまとめています。平成7年、戦後50周年を機に第1集を発刊した体験集は、ことしで第5集目になります。
●橋口さんご自身の戦争体験を教えてください。
昭和16年、私が当時15歳だったとき、満蒙開拓青少年義勇軍に入りました。私の行ったところは旧満州(現在の中国東北部)とソ連(現在のロシア)との国境近く。義勇軍は、満州の開拓に参加し、農作業訓練をするほか、兵隊として戦争に行くための訓練をしました。鉄砲を撃つ訓練や、マイナス40度の寒さの中、手袋を外し、どこまで耐えられるかという耐寒訓練などをしました。
昭和19年、志願兵として実際に戦争へ参加。私は諜報(ちょうほう)機関の一員として、馬や戦車などに乗る訓練をしたり、傷の手当をする衛生兵の訓練を行ったりしました。
戦場では生きるか死ぬかの場です。敵の中に入り、敵をかく乱させることもしました。自分の頭の上や足元に容赦なく鉄砲の弾が飛んできます。私も弾を受けて傷を負ったことがありました。
そして終戦。それからソ連軍の捕虜になりました。収容所に入れられるまでの2か月間、まともなものを食べたことはなく栄養失調になってしまいました。逃げる途中に飢えて死んでいく人も数多くいました。収容所に入ってからも、だれもが早く日本に帰りたいと思っていました。「日本に帰ったらすしを食べたい」と言った明くる朝、冷たくなって死んでいた仲間のことなどはいつまでも忘れられません。
●10周年を迎えての感想や、これからの会の活動などを教えてください。
記録として残すことは大変な作業ですが、ワープロで活字化することなど、皆さんの協力があって、形として残せていると思います。
将来を担う子供たちに一人でも多く、戦争を体験した人の話を伝えていきたいですね。まだまだ戦争体験の話はいっばいあると思います。会の活動を引き継いでくれる後継者を探しながら、戦争のない平和な社会を願って、体験を次の世代にまで語り継いでいけるようにしたいと思っています。
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( 写真説明 ) 「富士の語りべ」の会10周年記念座談会の様子
( 写真説明 ) 語りべさんの体験談を集めた「富士の語りべ」の記
語りべさんたちの戦争にまつわる話
望月寅雄さん・72歳(十兵衛)
忘れられないシベリアでの抑留生活
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昭和16年7月、私は満蒙開拓義勇軍の一員として、満州に渡りました。
開戦直前、鉄道に馬や軍事物資などが乗っているのを見かけて、不安に駆られたことを覚えています。戦争中は、日本に帰れず、家族への手紙も軍の検閲が入り、見たことや思ったことなどは書けませんでした。
終戦後、私はシベリアのライチヒンスクというところに抑留されました。収容所は高い塀に囲まれ厳しい監視の目があるところ。厳しい寒さと労働、また、食べ物も満足にない状態で、仲間もバタバタと死んでいきました。結局、私が日本に帰ることができたのは抑留されてから4年後のことでした。
私は厚生省が派遣する埋葬地調査団に参加しています。昨年も遺骨収集のためにシベリアヘ行ってきました。悲惨な戦争のつめ跡は現在でも残っているのです。
時田稚枝子さん・72歳(本市場新田)
貧しい戦時中の生活
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戦時中、私は高等女学校へ通っていました。当時、学校で勉強をするという状況ではなく、出征兵士のいる家の農作業によく動員されました。また、戦地にいる兵隊さんを励ますために送る「慰問袋」という袋に、作文やふるさとの富士山の絵を書いたりしたことを覚えています。
昭和19年の秋、私は吉原国民学校(後の吉原小学校)の教師となりました。校庭には防空ごうがあり、学校でサツマイモやカボチャなどをつくり食糧にしていました。また、紙も貴重でしたので大切に使い、消しゴムがないため、つばで文字を消すこともありました。鉛筆も短くなるまで使い切りました。
戦争中の主食は、汁の中にわずかな米と大根などの葉が入っている「すいとん」。米を十分に食べられることはありませんでした。小学校にも、お弁当を持ってくることができない子供も多くいました。
山崎靖彦さん・62歳(中央町2)
成長に大きな影響を与えた終戦前後の生活
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私は4歳のとき、両親とともに満州に渡りました。父は私の学齢期が近づくと、日本に帰り勉強することを勧め、私は東京の国民学校へ入学しました。ここでの授業の大半は、空襲に備えた避難訓練や消火活動訓練など。毎日、防空ずきんをかぶって防空ごうに逃げ込む訓練をしたものです。校舎の屋上には対空高射機関銃が四つ備えつけてあったことを覚えています。
戦争も激しくなってきた昭和19年、私は疎開命令で富士市に住むことになりました。
終戦後も、父はシベリアに強制抑留されたままでした。そのため、私も新聞配達などをして、生計を助けなければならず、生活するのに必死でした。小学校3年生から4年生にかけて、身長が1センチ低くなり、また、体重も減ってしまいました。戦争中や戦後、食べ物も満足に食べられなかったことが影響したのかもしれません。
戦争があったことをいつまでも覚えていたい
「富士の語りべ」の会の例会に参加した中学生の皆さんに、お話を伺いました。
●戦争はたくさんの人が殺し合ったつらい出来事で、昔のことだからといって忘れてはいけないこと。私たち一人一人、戦争がどういうものかを考えなければならないと思いました。(小澤さん)
●祖父からも戦争中の話を聞いています。語りべさんの話を聞いて、戦争の悲惨さを改めて感じました。今、自分が兵隊に行かされるとしたらと考えるとぞっとします。(渡辺さん)
●何も悪いことをしていない人が殺されたり、初めて会った人が殺し合ったりするなど戦争は恐ろしいと思います。私たちのような戦争を知らない子供たちにも、戦争について話をしてほしいと思いました。そして、平和な世の中であっても、戦争のことを忘れたくないです。(山本さん)
●実際の話を聞いて、一人一人違った戦争体験をして、いろいろな苦労があったことがわかりました。私がおばあさんになっても、戦争の怖さを子供たちに教えてあげたいと思います。(鈴木さん)
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( 写真説明 ) 左から小澤友美さん(須津中学校3年)、渡辺亮(りょう)さん(同1年)、山本恵実さん(同2年)、鈴木留菜さん(同3年)
戦争が終わって54年がたちました。しかし、戦争があったことは決して遠い昔のことではありません。
戦争は人間がもたらす大きな悲劇。その戦争の悲劇を風化させないために、戦争を体験した人も、戦争を知らない人も、改めて戦争があったという歴史を振り返り、未来に続く平和の大切さを、この夏に考えてみてはいかがでしょうか。
視聴覚資料をお貸しします
★ビデオテープ
・教えられなかった戦争 侵略・マレー半島(110分)
・証言 侵略戦争人間から鬼へ、そして人間へ(43分)
・核戦争後の地球第1部「地球炎上」(30分)
・核戦争後の地球第2部「地球凍結」30分)
・火垂(ほた)るの墓(90分)
・にんげんをかえせ(20分)
・君知ってる?首都炎上 アニメ東京大空襲(18分)
・はだしのゲン(90分)
・はだしのゲン2(90分)
・ヒロシマに一番電車が走った(30分)
・つるにのって〜とも子の冒険〜(27分)
・見上げればひまわり 千恵子さんとともに(30分)
・チェルノブイリ・クライシス史上最悪の原発事故(57分)
・さよならカバくん(25分)
・おばけ煙突のうた(42分)
・十六地蔵物語(26分)
・沖縄 第一部「一坪たりともわたすまい」(75分)
・沖縄 第二部「怒りの島」(120分)
・おかあさんの木(20分)
・なっちゃんの赤いてぶくろ(18分)
・青い目の人形物語(30分)
・対馬丸(75分)
★十六ミリ映画フイルム
・核戦争後の地球第1部「地球炎上」(30分)
・核戦争後の地球第2部「地球凍結」(30分)
・おこりじぞう(27分)
・おかあさんの木(20分)
・100番目のサル(20分)
・核戦争(15分)
( )内は放映時間
申し込み 広報広聴課 内線2823