大野新田に「天文掘(てんもんぼり)」と呼ばれる排水路がありました。天文堀がなかった江戸時代後期まで、大野新田の周辺はたびたび洪水に遭っていたそうです。
今国は、高橋勇吉がつくった天文堀を紹介します。
高橋勇吉の天文堀
昔、沼川から浮島の一帯の田は大雨が降ると湖のようになり、人々は大変困っていました。天保7年(1836年)、全国的に大飢饉(ききん)のこの年、秋の大雨で大野・桧・田中の三新田の稲も全滅してしまいました。食べ物は底をつき、餓死する人も出たほどでした。
このとき、大野新田に住む高橋勇吉は、この土地を何とかしようと排水路をつくることを提案しました。しかし村人や役人は、できるはずがないと相手にしてくれません。それでも勇吉はあきらめず、新田を見つめては排水路のつくり方を考えていました。
それから9年後、またも大飢饉が起こりました。勇吉は直接江戸の奉行所へ工事の願いを出しましたが、村人が奉行所へ直接訴えることは禁止されていたので、取り押さえられ牢に入れられてしまいました。そして厳しい取り調べの末、ようやく工事の許可が出されました。
勇吉は、財産を全部なげうって排水路の資金に充てて、15年もかけて排水路をつくりました。完成した排水路は、勇吉が天文学にも大変詳しかったことから「天文堀」と呼ばれるようになりました。
高橋勇吉の子孫 高橋 正美(まさみ)さん(桧新田)
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天文堀をつくった後、勇吉は豆腐屋をして生計を立てましたが、その生活はとても苦しかったようです。
よく小さいころ、母親から「天文堀をつくったことを自慢してはいけない。また、財産を失ったことを悔やんではいけない」と言われました。また、祖父に勇吉の手記を読み聞かせられたことも覚えています。
そのころ農家では、天文堀に川船を浮かべて稲を運んでいました。水がきれいで子供たちはよく天文堀で釣りをしました。ナマズやウナギなどがよく釣れ、シジミやトンボ、蛍もたくさんいました。その天文堀も、戦後になって土地改良や道路整備に伴いなくなりましたが…。
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( 写真説明 ) 高橋勇吉の生家隣にある天文堀の碑
( 写真説明 ) 天文堀跡に建てられた碑
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( 図表説明 ) 地図