次郎長町は富士宮市との境にあり、標高350メートルほどに位置する地域です。この土地は明治の初めに清水の次郎長が中心となって開墾が始められました。
今回はこの次郎長の開墾にまつわる話を紹介します。
次郎長開墾
明治7年、清水の次郎長は、山岡鉄舟や静岡県令・大迫貞清(おおさこさだきよ)に富士山の裾野の荒れ地開墾を勧められました。そこで次郎長は、静岡監獄の江尻(現在の清水市)支所から囚人を使って開墾を始めました。実際には次郎長の養子となった天田(あまたの)五郎という人物が開墾の指揮をとりました。荒れた土地を開墾するためには木を切り、雑草と闘い、岩を砕く苦しい労働が続きました。
しかし、土地はやせており、コウゾやミツマタなど紙の原料や農作物をつくるのはとても難しいことでした。そして10年後の明治17年、約76町歩(現在の約75ヘクタール)を開墾して中止になり、全員引き揚げてしまいました。
その後、この土地は官有地から民有地として払い下げられ、横浜の貿易商・高島嘉右衛門(かうえもん)が四十町歩を譲り受けました。また、山梨県や御殿場、裾野などの近くの村からも、この土地に入植し開墾が再び始められました。
こうして、現在の次郎長町の基礎ができたのです。
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( 写真説明 ) 次郎長町の中心に祭られている白髭(しらひげ)神社
( 写真説明 ) 白髭神社にある次郎長開墾記念碑
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( 図表説明 ) 地図
次郎長町で生まれ育った
平田實(みのる)さん (次郎長町)
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次郎長に助けられたことが縁で、開墾を手伝ったという「お相撲常(つね)」と呼ばれる人がいたそうです。相撲が強かった常にちなんでか、昔は白髭神社の境内に土俵がありました。そこではよく子供相撲が開かれていましたよ。
また、昔はとにかく水には苦労しました。雨水に頼っていたので、水がなくなってしまったときには、井戸のある隣の町まで水をくみに行ったものです。また、土地がやせていたので、馬や牛のふんを肥料に使ったりして作物を育てました。しかし、限られた作物しかできず農業をやるのも大変でしたね。