【広報ふじ平成10年】ふるさと文学マップ
郷土にゆかりのある文学を紹介します。
富士市は日本一の高さを誇る富士山のふもとに広がっているまち。加えて、富士川や浮島沼などもあり、恵まれた自然環境に囲まれています。また、交通の要衝であったことから、人が行き来し、情報や文化が交わりました。
このような恵まれた環境のおかげで、富士で誕生した作品や、ゆかりのある物語や文学作品が、いまでも数多く伝えられています。
今回、富士山のふもとで誕生した作品の中から、代表的なものを取り上げてみました。身近に伝わる文学に、この秋ふれてみてませんか。
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富士文化財愛好会会長 宮崎 武頼(たけより)さん(大淵)
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、富士山の眺めがよく、昔から人が住み、多くの人が行き来した結果、富士市には多くの物語が伝えられています。それは土地に縁のある和歌や俳句、詩、漢詩や文章の一部を刻字した文学碑が、市内各地区の至るところで見ることができることからもうかがえます。内容の特徴としては、富士山や水を題材にしたものが多いことが挙げられますね。
富士市は全国的にも有名な人の作品や物語と縁が深いのに、それを知らない人が多いのではと思います。郷土に残る物語や作品は、先祖が残してくれた大切な財産。現在を生きる私たちでも共感できるものがあります。また、昔の郷土のことを知ることは現在を知ることだとも思います。自分の住んでいる場所に目を向けると、自分の中での新発見がありますよ。
●富士を舞台に
1.竹取(たけとり)物語
富士市・中比奈は日本最初の物語とされる「竹取物語」の発祥の地と言われています。「比奈」という地名は、千年も昔からの「姫名郷(ひなのごう)」という地名がなまったものだと言われています。かぐや姫の話はここから都に伝わり、いろいろな脚色が加わって、物語として完成しました。
かぐや姫が生まれたとされる竹林の中には、古くから自然石に「竹採姫」と刻んだ小さな塚があります。この塚の周辺を整備してつくられた公園が「竹採公園」です。この公園は物語の進展に合わせてつくられているのが特徴。また、公園の近くには竹取の翁(おきな)を祭る滝川浅間神社やかぐや姫が水鏡にしたという説もある鑑(かがみ)石など、物語に関連する史跡が多くあります。
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( 図表説明 ) 地図
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2.曽我(そが)物語
日本三大あだ討ちとして有名なこの物語は、源頼朝(よりとも)が行った富士のすそ野の巻き狩りのときに、曽我十郎と五郎の兄弟が親のあだ討ちに成功したが、最後には二人とも殺されてしまったという史実がもとになっています。この事件に対する当時の人たちの関心は強く、人の口を通して広まり、一つの物語としてまとまったとされています。また、子が親の敵(かたき)を討ち長年の目標を達したということが江戸時代には美談とされ、後の歌舞伎(かぶき)、能、浄瑠璃(じょうるり)に大きな影響を与えています。
曽我兄弟の弟五郎が処刑された場所が鷹岡地区と言われ、兄弟の墓がある曽我寺をはじめ、曽我八幡宮や処刑された五郎の首を洗ったと伝えられる首洗い井戸などゆかりの史跡が多くあります。
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3.平家物語
平家一門の栄華とその滅亡を描いた軍記物語である平家物語。大きな権力を握っていた平家が、源頼朝を代表とする源氏に滅ぼされていく一つの転機となったのが、富士川の合戦と言われています。そのころの富士川は今と流れが異なり、源氏が陣を取ったのは現在で言うと今泉に当たると考えられています。「平家越(へいけごえ)」と言う地名は、このことにちなんで名づけられたと言われ、「平家越え橋」という橋のたもとには碑が建てられています。
また、富士市には頼朝にまつわる民話や伝説が多く残っています。地名にも「呼子(よびこ)坂」「源太(げんた)坂」といった頼朝にかかわりが深いものがたくさんあります。
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●富士山を歌う
4.山部赤人(やまべのあかひと)
天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かん)さびて
高く貴(とうと)き 駿河(するが)なる 富士の高嶺(たかね)を
天(あま)の原 振りさけ見れば 渡る日の
影も隠(かく)らい 照る月の 光も見えず
白雲(しらくも)も い行きはばかり 時じくぞ
雪は降りける 語りつぎ
言い継ぎ行かん 富士の高嶺は
田子の浦ゆ うち出(い)でて見ればま白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける
田子の浦港のカーフェリー発着場の傍らに、山部赤人の歌碑があります。山部赤人は奈良時代の有名な歌人です。この富士山を詠んだ歌は、日本最古の歌集である万葉集におさめられています。
赤人は政府の役人として東国に赴く道中、田子の浦から富士山を仰ぎ見たといいます。そのときの富士山の姿があまりにも雄大で神秘的であったことから、その感動を歌に託したのです。
高くてとうとい富士山の姿をたたえ、未来永劫(えいごう)に語り継いでいこうとする赤人の思いには、現在を生きる私たちも共感することができます。
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5.松尾芭蕉(ばしょう)
ひと尾根は しぐるる雲か 不二(ふじ)の雪
江戸時代になると、富士は東海道の宿場を抱える地域として、多くの旅人が行き来するようになりました。そんな旅人の中に江戸時代の元禄文化の担い手の一人である松尾芭蕉がいました。富士公民館の隣にある平垣公園には、貞享4(1687)年に伊賀上野へ向かう途中、芭蕉が柚木の茶屋で詠んだ句を刻んだ歌碑があります。また、この歌碑の裏には、この碑を設置した丹波野楊(たんばやよう)の俳句が刻まれています。
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富士山古典メモ
生まれて初めて見る富士山は格別な感動をもたらします。それは、今も昔も変わらないのではないでしょうか。
鎌倉時代に東国に向かう旅の途中の出来事をつづった紀行文に、源親行(ちかゆき)の作と言われる「東関(とうかん)紀行」があります。その中で富士山は「青い色をして天にそびえる姿は、絵に描いた山よりもはるかにすばらしく見える」と表現されています。また、田子の浦に出て富士山を眺めたときに詠んだと思われる
富士のねの 風にたゞよふ 白雪を 天(あま)つをとめの 袖(そで)かととぞ見る
という和歌が載っています。
松下 孝子さん(増川)
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生まれたときから富士山を見ていますが、いまだに冬の雪をかぶったときの美しさや神々しさに感動することもしばしばあります。私も趣味で短歌をやっていますので、昔の人が初めて富士山を見て、感激のあまり歌や俳句を詠んだ気持ちはわかりますね。
富士山を題材にした話や文学作品が数多くあるのは、今も昔も富士山が魅力的だからではないでしょうか。私たちは、この美しい富士山を守っていかなければいけませんね。
●郷土の歌人
6.東歌(あずまうた)
天(あま)の原 富士の柴山 木(こ)の暗(くれ)の
時移(ゆつ)りなば 逢(あ)はずかもあらむ
東歌とは万葉集におさめられている東国の庶民の歌で、若い男女の恋や日常生活を歌っています。広見公園にある歌碑には、富士山のふもとを舞台とした男女の恋の歌が刻まれています。富士山のふもとの柴山が暗く生い茂った場所で恋人と会う約束をしたが、約束の時間が過ぎてしまったら、二人は会うことができなくなるのでは、と不安な気持ちで山道を急ぐ男の感情を詠んでいます。
この碑のデザインは富士山の雪形になぞらえ、大小二つの人の形になっています。雪形とは、山の雪の消え具合によってできる形のことです。昔の人はこれを見て農作業の時期をはかり、その年の豊凶を占ったそうです。滝沢馬琴(ばきん)の「羇旅漫録(きりょまんろく)」によると4・5月ごろ宝永山のあたりに人形(ひとがた)が見え、これを「農男(のうおとこ)」といい「田子の土人(どじん)いふ。農男見ゆる年は必ず五穀熟す」と記されています。
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7.環亭去留(かんていきょりゅう)
久多羅野(くたらの)や 菊はいのちの 長きもの
環亭去留は宝暦13(1763)年東比奈の渡辺家に生まれました。成人前に沼津市の渡辺家に婿入りしましたが、若くして隠居し、環亭去留と名のって俳諧活動に専念したようです。
寛政・文化期の岳南地域の中心的俳人として活躍しましたが、66歳で没し、彼の句碑は天保5(1834)年に遺族によって渡辺家墓地に建立されました。
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8.松井菅雅(かんが)
松に声 ふくみて雪の あしたかな
松井菅雅は、明和6(1769)年に中比奈で生まれた俳人です。環亭去留の生家である渡辺家で下男として働いていたことから、去留に俳句を教わりました。それをきっかけに俳諧の道に入り、さらに江戸雪中庵完来(せっちゅうあんかんらい)に入門して腕を磨きました。また、茶道や生け花なども、たしなんでいたと言われています。
彼の句碑は没後、文政7(1824)年に門弟によって建てられました。
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