森島村の開発と高沢道喜
森島区では、10月18日(土曜日)に氏神様の秋の大祭にあわせて、森島公会堂南側で森島区誕生350年の記念行事を行います。
今回はこれにちなみ、江戸時代初期にさかのぼる現在の森島区誕生の歴史と、新田開発にすべてをささげた高沢道喜(たかざわどうき)を紹介します。
高沢道喜は、遠州出身の浪人でした。仕官の道を求めて諸国を遍歴中に、富士郡横割村の伊藤八左衛門の家で世話になることになりました。
そのころ、加島平野では大規模な新田開発が行われていました。道喜は、この大事業に身を挺(てい)して働いている古郡孫太夫重政に心を打たれ、「長年武士として生きようと志してきたが、戦国の世が終わったいま、武士であることは最善の道ではない。こうして新田を開発し、農民として生きる方がよほど尊(とうと)いことである」と、今までの生き方をきっぱり変えたのでした。道喜は重政に新田開発に加わることを申し出ると、重政は快くそれを受け、現在の森島周辺の荒れ地を道喜に託しました。
石を拾い、土を運び、雑草を刈り、溝をつくり、雨の日も風の日も、道喜は農民の先頭に立って黙々と働き続けました。何年かたつと、一つの村ができるほどの開墾地ができました。村人は道喜の努力なしにはあり得なかったこの土地を「道喜島」と呼ぶようになりました。
「道喜島」は江戸中期、幕府の命によって「森島」と改名されました。そしてその後、繰り返し起きた富士川のはんらんをくぐり抜け、今日の「森島区」に発展したのです。
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( 写真説明 ) 法田寺(ほうでんじ)にある「加嶋之郷関発の先覚高沢道喜之碑」
森島の歴史を研究している 小林一郎さん(森島)
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森島の歴史を調べようとしたきっかけは、平成5年の森島公会堂竣工(しゅんこう)式でした。せっかく新しい公会堂ができるのですから、森島の歴史を調べて記録に残そうと思ったのです。
調べていくうちに、法田寺(ほうでんじ)の前代住職さんに「法田寺記」を読ませてもらい、森島開発の由来について知りました。それによると、高沢道喜は中国の陶淵明(とうえんめい)の詩の一節をいつも口ずさんで一生懸命に働いていたということです。
今では道喜が開発したこの森島の土地に、戦争を経て1,000以上の世帯が生活をしています。また、土壌は肥沃(ひよく)で、水田だけでなくいろいろな作物が収穫できます。私が子供のころの、森島でとれた富士梨の味は抜群でしたよ。