ことしは、戦後50年。
戦争で多くの命が散っていきました。
私たちは、とうとい犠牲の上に、
今の日本の平和が成り立っていることを
決して忘れてはなりません。
夫や息子などを戦地に送り出し、.
残った子供や家族を銃後で守った女たち。
彼女たちは、どのような思いで
終戦を迎えたのでしようか。
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( 写真説明 ) モンペをはいて登校する子供たち。げた履きの子供が目立つ。
( 写真説明 ) 大渕村女子青年団。戦時中、食糧生産を支えていたのは、主に女性や老人、子供たちであった。
( 写真説明 ) モンペ姿に防空ずきん。「元吉原小学校 開校百年記念誌 松籟(しょうらい)」より
夫の戦死後、家業を支えてきた
加藤せつ子さん(吉原)
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駅での見送りが、夫との最後の別れ
昭和15年、夫に3回目の召集がかかりました。そして、暑さ厳しい7月30日に豊橋駅を出発することになりました。
私は、何とか夫に会いたいと思って、3歳の息子と1歳の娘を連れ、豊橋駅まで行きました。ところが、暑い上にすごい人込みなので、駅前の宿屋に子供を預け、見送りのホームへ出ました。
夫は、列車の中でしたが、衛生兵として赤十字の腕章をしていたので、すぐにわかりました。しかし、憲兵がやかましくて、ロなどきくこともできませんでした。私と夫は、お互いに目と目で合図して、理解し合いました。夫は「子供や家族のことを頼んだぞ」と言っていたのだと思います。
そして、ものすごい汽笛を残して列車はホームから出ていきました。今も忘れることのできないほど、ゴーッと響く嫌な音でした。
子供のところへ戻ったら、周りの人から「こんな小さな子でもわかるんでしょうか、お父ちゃんよく見えたよ、よく見えたよって寝言を言ってましたよ」と聞きました。親子の情っていうものは、どこかでつながっているのかなって感じました。
突然、一家の柱に
私は、何も知らず、みんなに勧められるまま、夫のもとに嫁いできました。夫は9人兄弟の長男。夫の両親や祖母との同居です。嫁ぎ先では商売をしていて、住み込みの従業員も大勢いるという大家族でした。
商売については何も知らない私でしたが、当時は、「女は家事をすれば、商売のことは心配しなくてもいい」と言われていました。
ところが、夫の出征でそうも言ってはいられなくなりました。夫の両親も年をとっていましたので、私が店を切り盛りしなくてはいけなくなったんです。
それからというもの、大変なことの連続でした。商売を知らない私は、まず小切手や手形の振り出し方、電話のかけ方などを覚え、お客さんとのやりとりを通して商売について学んでいきました。
やがて、戦争が激しくなり、食べる物や着る物がなくなりました。そして物価統制になったため、それまで持っていた商品は全部、値段が定められて半額でしか売れなくなってしまいました。掛け売り先に集金に行っても疎開してしまったり、不渡り手形が出るようになったりで、支払いに追われる毎日でした。
商売だけでなく、大家族の世話にも疲れ果て、私は、骨と皮ばかりのようになってしまいました。近所の人は、「あそこのお嫁さんは今にも倒れそうだけど、いつ家を出ていくんだろうね」と話していたそうです。
夫からの手紙を待っていた
夫は、ビルマとタイの国境付近でイギリスと戦っていました。そして、たびたび私や子供あてに手紙を送ってくれました。私には、家族のことなどを頼むという内容で、子供たちには「こちらはとても暑いです。日本の冷たい水を飲みたいです。あまり氷やアイスキャンデーを食べて、ポンポを悪くしないでくださいね。お父ちゃんが帰るときは、お土産を買っていきます。おとなしく待っていてください」といった手紙が送られてきました。
毎朝ポストを開けるのが、息子の日課でした。夫からの手紙を待ち続けていたんです。しかし、やがて手紙の回数が減り、とうとう来なくなりました。
そして終戦から2年経ったある日、知らない人から手紙が来ました。手紙の主は、夫の戦友でしょうか、手紙には夫が死んだらしいと書かれていました。
みんな、国のためと信じて
終戦後、私が中心になって吉原の遺族会を結成しました。お互いに苦しい思いを打ち明け合ったり、一緒にお茶を飲んだりして、みんなで力を合わせて、50年間頑張ってきました。
私たちの年代は、男の人が少ないんです。みんな、国のためと信じて戦争へ行き、亡くなってしまいました。本当は行きたくなかったかもしれないのに…。今、私が思うことは、あの戦争がどういうものだったのか、みんなに学んでほしいということです。
台湾でともに終戦を迎えた
真野安純(やすずみ)さん
秀子さん (鈴川西町)
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開戦翌年に結婚
以前から顔見知りだった二人が結婚したのは、昭和17年。太平洋戦争が始まった翌年のことでした。
真野安純さんは、台北の台湾鉄道に勤めていたおじさんに呼ばれ、昭和8年に台湾へ渡りました。ところが、昭和12年に日本軍の台北第一連隊補充隊に召集され、中国の戦線へ参加したのでした。そこでは、最前線に駆り出され、仲間の約半数は戦死してしまいました。
そして、何とか無事に召集解除された安純さんは、一時帰国。秀子さんと結婚するに至ったのです。
幸福の絶頂から戦争の真っただ中へ
二人は、結婚して間もなく台湾へ。当時の心情を秀子さんは、次のように語ります。
「台湾へ渡ったころは、まだ戦争の不安を感じることもなく、全く知らない異国の地へ行くことに、それほど抵抗はありませんでした。むしろ、遠い国へ行くことにロマンすら感じていました。台湾までの船旅は、まるで新婚旅行気分で、海や南十字星などの星がとてもきれいで感激したことを覚えています」
ところが、太平洋戦争が激化し、平穏無事な生活は2年と続きませんでした。
特に戦時中の鉄道は、軍事物資輸送の重要な手段だったため、真野さん夫妻が住んでいた台湾鉄道の官舎は、たびたびアメリカ軍の空襲を受け、かなりの被害が出たそうです。
終戦、そして日本への引き揚げ
当時の台湾は、日本の植民地として支配されていました。そのため、全人口の約1割しかいない日本人が、圧倒的に権力を握っていたのです。
しかし、昭和20年8月15日、日本の敗北という形で終戦を迎えます。そして、終戦と同時に力関係が逆転。一部の台湾人か暴徒と化し、日本人警官を襲ったという事件も起きました。
秀子さんは、「台湾へは、中国軍が進駐してきました。ところが、中国兵はとても礼儀正しく、紳士的でしたね。日本人の台湾からの引き揚げに関しても、話に聞く「満州」ほどの混乱はなかったのでは…。
それでも私たちが台湾をやっと出発できたのは、終戦翌年の3月のこと。家財道具を現地でたたき売ってリュック一つを背負い、幼い長男を連れ、引き揚げ船に乗り込みました。船底にすし詰めの状態で、台湾への行きと帰りとでは、雲泥の差がありました。
それでも離れ離れになることなく、家族一緒に行動していたので、心細いということはありませんでした」と、引き揚げの様子を語ってくれました。
平和な社会を願って
「日本へ戻ってきてから、二人の男の子を産み、全部で3人の子供を育てました。これまでいろいろなことがあったけど、今思えば、夫婦そろって元気に生きてこれて、平和で幸せだったかなって…。
でも、今もなお世界中で戦争が起きていますよね。テレビや新聞などで、小さな子供までが犠牲になっている姿を見ると、とてもたまらない気持ちになります。日本はもちろん、世界中が平和であり続けてほしいと願っています」
戦後50年を生き抜いてきた真野さん夫妻の願いは、平和な社会の存続。それが簡単なものなのか、難しいものなのか、そのかぎを握るのは、これからの社会を支える若い世代の人たちなのではないでしょうか。
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( 写真説明 ) 太平洋戦争中、農作業に動員されて働く吉原高等女学校の学生。戦争が激化すると、吉原高等女学校の学生も農作業へ頻繁に動員されていった。昭和19年には、学校工場で救命胴衣をつくったり、軍需工場へ徴用されたりした。
( 写真説明 ) 大芝裁縫女学校の授業風景。大正6年、水戸島に設立された大芝裁縫女学校は、小学校を卒業した女子のため、実際生活に必要な女性としての心得を養成することを目的としていたが、昭和19年に廃校となった。
( 写真説明 ) バケツを担いでいる佐野鉄工従業員
お知らせ
戦没者などの遺族の皆さん、特別弔慰金が支給されることをご存じですか
電話 社会福祉課 内線2312
戦没者などの遺族の人に、特別弔慰金(額面40万円、10年償還の国債)が支給されます。
対象となるのは、戦没者などの死亡当時に3親等内であった遺族の人で、平成7年4月1日現在において公務扶助料、遺族年金などの受給権のない人です。
〈支給対象者〉
特別弔慰金は、下記の遺族のうち、次の順序に従って、最も順位の高い1人に支給されます。
(1)平成7年4月1日までに弔慰金(遺族国庫債券)の受給権を取得した人
(2)戦没者などの子
(3)戦没者などと生計をともにしていた1父母2孫3祖父母4兄弟・姉妹(婚姻、養子縁組などにより平成7年4月1日現在で氏が変わっている人は除かれます)
(4)上記の(3)以外の1父母2孫3祖父母4兄弟・姉妹
(5)上記の(1)〜(4)以外の3親等内の親族(戦没者などの死亡まで引き続いて1年以上生計をともにしていた人に限ります)
〈特別弔慰金の申し込み受付〉
申し込みの受け付けは、大変混雑が予想されます。受付月日が地区別に分かれていますので、下の表を参考に、できるだけ決められた日に受け付けしてください。なお、受け付けは、平成10年3月31日まで行います。
受付場所 市役所2階 市民ロビー
受付時間 9時〜11時30分、13時〜16時
持ち物 請求者の印鑑(シャチハタなどの印鑑は不可)、請求者の戸籍抄本
- 図表あり -
ロゼシアター 戦後50年特別企画
劇団文化座 朗読劇
あの人は帰ってこなかった
たった一枚の召集令状が、私とあの人を永遠の別れに…
戦争未亡人が歩んだ苦難の記録を、女優・鈴木光枝が入魂の演技で朗読…。
8月29日(火曜日)ロゼシアター 中ホール 19時開演
入場料/全席指定 S席3,500円
A席3,000円
学生1,500円
戦後50年報道写真展
入場無料
戦後50年の「激動の時代」を写真パネルでつづる企画写真展。半世紀の歳月は、私たちに何を残したのか…。
8月9日(水曜日)〜31日(木曜日)
ロゼシアター展示室 9時〜19時
問い合わせ・申し込み ロゼ・チケットセンター 電話60-2500