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【広報ふじ平成7年】証言 大震災が残した教訓

いざというとき あなたは?

阪神・淡路大震災が起きてから はや6か月。
世の中の情勢が目まぐるしく変わる中であなたの意識からあの大惨事の記憶が薄らぎ始めていませんか。
決して 忘れてはいけません。 
大震災が残した教訓を。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 1月17日に起きた大地震は、多くの建物を倒壊させました。
( 写真説明 ) つらい避難所生活を送る被災者の人たち


証言・1
全国各地からボランティアが集まりました。
しかしときとして被災者を追い詰めてしまったこともありました。
6月17日・社会福祉協議会主催の「ボランティア講座」より

(社)富士市シルバー人材センター
稲葉清美さん
- 写真あり -

ボランティアはいるけれど…
 大震災のニュースを、埼玉県秩父市で耳にしました。当時、私は、全国の福祉施設を見学して回っていたんです。
 早速、富士市へ戻ると、新聞で「震災ボランティアは、続々と被災地に集まっているが、ボランティアコーディネーターがいない」という記事を目にしました。私は、前の職場で在宅高齢者などに対する相談員をしていたことや、障害を持つ知り合いの人から「重度障害者が、どのような生活を送っているのか見てきてほしい」と言われたことがきっかけで、2月4日に被災地へ。私が着いたのは、神戸市中央区。ほとんどの人は、学校などの避難所に集まっていました。
 避難所のボランティアは、学生や社会人、退職した人など、さまざまな年齢・職種の人が、北海道から沖縄までの全国各地から集まっていました。
 しかし、ボランティアをまとめるリーダーがいなかったのです。自治体の職員や地元のボランティアもいましたが、その人たちも被災者だったんです。

被災者への援助とは
 私たちは、まず最初に在宅障害者の安否確認を行いました。しかし、確認作業は困難をきわめました。なぜなら、全く行方がわからない人のほか、視覚、聴覚、精神障害などを持つ人たちの中には、一たん避難所に集まったものの、避難所生活に不便を感じ、避難所を出ていってしまった人が多かったのです。もし、1週間以内に障害者への援助ができていればと、残念に思いました。
 ボランティア活動は、障害者や寝たきりの人の入浴介助、通院介助などのほか、人捜しや、給水所への水くみなど、生活全般にわたるさまぎまな援助を行いました。しかし、被災者の要望すべてにはこたえられませんでした。
 富士市へ戻る前の日、被災者の一人から「あんたらは、いいよな。帰るところがあって」と言われたことが、今もなお心に残っています。
 地元で生活を続ける被災者に対し、私たちは、被災者の生活すべてに援助するのではなく、自立に向けて協力すべきなのだと痛感しました。
*ボランティアコーディネーター…ボランティア活動をまとめ、管理・指導する人


証言・2
母を大震災で亡くし、親せきを頼って富士市へ。
つらいこともあったけど、神戸は、私が生まれ育った街。
早く復興してほしいですね。

木村真弓さん(天間)
- 写真あり -

突然襲った大地震
 1月17日の早朝、下から突き上げるような揺れが、私たちを襲いました。
 父と母、私、妹の4人で住んでいた2階建ての家は、1階の部屋が完全につぶれてしまいました。2階に寝ていた私と妹は無事でしたが、父と母は天井の下敷きになってしまいました。
 父は、倒れたタンスと壁との空間のおかげで助かりましたが、母は、もろにタンスの下敷きになり、その上から2階の部屋と天井が落ちてきたため、即死でした。
 父は、近所の人によって、すぐ助け出されましたが、母の遺体を外へ出すのには時間がかかってしまいました。

避難所は決まっていなかった
 私は、けがをした父と一緒に近所の小学校へ行きました。避難所は決まっていなかったけれど、小学校へ行けば何とかなるんじゃないかと思ったんです。案の定、小学校には、たくさんの人が避難していました。
 当日、薄い食パンが、1人1日につき1枚だけ支給されました。翌日も同じでしたが、どこから、どのように支給されたのか、まったく覚えていません。三日目から炊き出しを始め、温かいおにぎりを食べられるようになりました。
 一方、母の遺体は、全く別の公民館に安置されました。妹は、ずっと母に付き添っていました。
 母の遺体を火葬することができたのは、地震発生から5日目のことでした。

つらい避難所生活
 避難所は、水が少なく、ほこりだらけで不衛生でした。父には病気があったので、私たちは避難所から出ることにしました。当初は、知り合いや親せきの家を転々としていましたが、結局私たちは、神戸での生活をあきらめ、親せきを頼って、3月に富士市(市営住宅)へ引っ越してきたのです。

神戸の復興を願って
 私たちの家があったのは、神戸市東灘区。倒れた高速道路のすぐ北側でした。周辺の家は、ほとんど全壊に近い状態で、復興には、かなりの時間を必要とするのではないでしょうか。
 つらいこともあったけど、神戸は、私が生まれ育った街。とても愛着があります。早く復興してほしいですね。そして、一日でも早く神戸に戻れる日が来ることを願っています。


証言・3
私たちは大震災が残した多くの教訓を忘れてはいけません

富士市総務部交通防災課
加藤典男参事補兼防災係長
- 写真あり -

すぐさま現地入り
 阪神・淡路地域に大地震が起きた1月17日の午後1時、私は静岡県の調査団の一員として、富士市を出発。22時間かかって、翌18日の午前11時に被災地へ入りました。
 駅前におりたときは、「いくつかの古い建物が崩れているな」と感じただけでしたが、住宅街へ一歩足を踏み入れた瞬間、言葉を失ってしまいました。なぜなら、建物が軒並みつぶれているじゃありませんか。中にはまだ人が生き埋めになっていて、救出作業をしているところもありました。

耐震性の低い建物に被害
 阪神・淡路地域は、今までめったに地震がないかわりに、台風の通り道と言われていました。そのため、かわらぶきで屋根の重い家が多く見られました。また、倒壊した建物は、ほとんどが30年以上前に建てられたものでした。耐震性が低く、老朽化が進んだ建物は、震度七の大地震にはひとたまりもなかったようです。
 富士市内にも耐震性の低い建物がいくつかあります。自分の家がどの程度耐えられるのか、耐震診断をしておいた方がいいですね。それによって、地震が起きたら、すぐに家の外へ逃げ出した方がいいのか、家の中で様子を見た方がいいのか、判断基準になります。
 今回の大地震では、5,502人の死亡者のうち、9割近くの人は、建物の倒壊や家具の下敷きなどにより圧死してしまいました。各家庭で耐震補強や家具の固定をしていれば、被害は軽減されたのではないでしょうか。

防災訓練の必要性を痛感
 この地域では、多くの人に地震防災訓練の経験がありませんでした。当然自治体職員も、ほとんどの人が未経験でした。地震が起きたときのことを想定して訓練を積んでいる人と、そうでない人との差は、歴然としています。
 もし、防災訓練が徹底していたら、被害はもっと少なくなっていたはずです。例えば「火災」です。全死亡者の約1割が火災で死亡しました。大火災になった理由は、倒壊した建物のために消防車が現場へ急行できなかったことや、水不足などが挙げられますが、それよりも初期消火をできなかったことが、一番の原因ではないでしょうか。地元住民によるバケツリレーなどで、早めに火を消していたら、約300件の火災のうち、その半分を防ぐことができたと言われています。

重要な自主防災活動
 そこで、重要性を見直されているのが、「自主防災会」です。
 今回ほどの大地震が、富士市に起きた場合のために、各自で水や食料の確保、医療品や懐中電灯などを用意しておくことが大切です。
 しかし、個人で、できることにも限界があります。大災害に対処するためには、隣近所の助け合いが必要となります。この助け合いの組織が、「自主防災会」です。
 実際に地震が起きた場合、負傷者の捜索・救助、軽傷者の手当て、応急的な消火活動などが自主防災会の重要な役割となります。
 また、避難所生活は自主防災会によって、運営されるべきと考えます。しかし、阪神・淡路地域では、ほとんど自主防災会は組織されていませんでした。そのため、地震の後、避難所に集まった住民をまとめる役割分担と責任の所在が、明確ではなかったのです。
 被災者の疲れ切った姿や、子供たちの悲しそうな表情が忘れられません。水・食料などの配給、暖房や仮設トイレの設置が不十分だったことなど、厳しい避難所生活の様子は、多くの問題を私たちに示すこととなりました。

大震災が残した教訓
 阪神・淡路大震災は、多くの犠牲者を出したことと引きかえに、多くの教訓を私たちに残してくれました。
 私たちは、その教訓を忘れてはいけません。今、何ができるのか、地震が起きたらどうすればいいのかを。


大震災に関する富士市からの支援に対し、神戸市長からお礼のメッセージが届きましたので、ご紹介します。
 富士市民の皆様、温かいご支援をありがとうございます。
 1月17日の震災発生以来、富士市民の皆様から温かい励ましと多くのご支援をいただいてまいりました。心からお礼申し上げます。
 6か月が経ち、神戸市内では、復興に向けてのつち音が響き、人々の生活も徐々にではありますが、落ちついた状態に戻りつつあります。
 長く険しい道のりではありますが、神戸を今まで以上に魅力ある街としてよみがえらせるよう努力をしてまいりますので、引き続きご支援をいただきますようお願いいたします。
平成7年7月  神戸市長 笹山 幸俊


我が家の備えは大丈夫?

家族で防災会議
 家族で防災会議を開き、避難場所(集合場所)や持ち出し品などを確認しておきましよう。

家の耐震診断
 自分の家が、どれほどの地震に耐えられるのか診断しておきましょう。結果により、外へ逃げた方がよいかどうかの目安になります。

家具の転倒・落下防止
 阪神・淡路大震災では、家具の転倒が原因による死傷者が多く出ています。物が凶器にならないよう、もう一度、身の回りの家具の安全を確認しましよう。

消火の備え
・石油ストーブ、ガスコンロ、ガスストーブなど、火を使う器具は、安全装置つきのものを使いましよう。
・灯油、食用油などの燃えやすいものは、火の元から離れた安全なところに保管しましよう。
・火の元の近くには、消火器や消火用具を備えておきましょう。
・日ごろの防災訓練に参加し、消火器の使い方などを練習しておきましよう。

ブロック塀の対策
 阪神・淡路大震災では多くのブロック塀が倒れています。見た目はしっかりしているものでも、もう一度安全性を確かめましよう。危険と判断されたら、補強または生け垣やさくへの取りかえなどの対策が必要です。市では、生け垣に取りかえる場合など、費用の一部を助成する制度があります。

食料の備え
 地震直後は、食料品を買うことが困難になります。各家庭で食料7日分(うち非常食三日分)程度を用意しておきましょう。
・主食 米、乾パン、インスタント食品など
・副食 漬け物、梅干し、つくだ煮、缶詰など
・調味料 みそ、しょうゆ、塩など 

飲料水の備え
 地震が起きると、水不足が大変な問題になります。日ごろから水を蓄えておきましょう。いつもおふろなどに水を入れておくと、多目的に使えます。
・1人につき1日3リットル分の水を、最低三日分用意。

非常持ち出し品の用意
 医薬品、懐中電灯、ラジオなど、家族構成を考えて最低限度のものを用意しておきましよう。
 特に病人、乳幼児、妊婦などのいる家庭では、必要なものを考えて用意しておきましよう。

もし、地震が起きてしまったら
1.まず身の安全
  特に乳幼児やお年寄り、体の不自由な人の安全を守りましょう。
2.素早く火の始末
  揺れがおさまったら、靴などを履いて火の元栓はすべて閉めましょう。
3.火が出たらすぐ消火
  揺れがおさまってから、落ちついて火を消せば大丈夫。
4.慌てて外に出ない
  かわらの落下や、門柱、ブロックの倒壊に注意しましょう。
5.山・がけ・津波危険地域の人はすぐ避難
  危険地域に指定されている場所に住んでいる人は、すぐに避難してください。
6.我が家の周りの被害点検
  周りを点検し、危険な場所に近づかないようにして、余震に備えましょう。
7.避難は徒歩で
  各自主防災会で決められた集合場所へ、車などを使わず徒歩で避難しましょう。
8.自主防活動へ参加
  自分の安全が確保できたら、自主防災の活動に協力しましょう。
9.正しい情報を
  デマや人のうわさに惑わされないよう、正しい情報をつかみましょう。
10.電話・自動車の利用を控える
  緊急通報・車両の妨げになるため、電話や自動車の利用を控えましょう。


 富士市でも、いつ大地震が起きるかわかりません。
 市では、阪神・淡路大震災を教訓に、防災体制の強化を急ピッチで進めています。しかし、想像を絶するほどの大地震が起きて、都市機能がまひしてしまったら、自分自身や家族の生命は、自分たちで守るしかありません。
 そのためには、日ごろの備えを万全にしておきましよう。そして、地震が起きたら何をすればいいのか、しっかり確認しておきましよう。

問い合わせ 交通防災課 内線2776
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広報広聴課 (市庁舎8階北側)
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