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【広報ふじ平成6年】戦争と平和

いつまでも忘れてはならない現実が今もなお・・・

 人に生命の重みを忘れさせ、大切な家族や恋人を奪い、全てを一瞬にして灰にしてしまう「戦争」。
 戦争が引き起こす悲惨な現実は、日本人だけでなく、世界中の人が思い知らされているはずなのに、今もなお、世界各地で悲劇は幕を降ろしていません。世界の永久平和のために、日本はこれから何をすればいいのでしようか。人は一体どこへ行こうとしているのでしょうか。
 1945年8月15日、日本は第二次世界大戦の終戦を迎えました。広島と長崎に投下された原爆で、21万人もの死者が出たのを含め、戦争で死んだ日本人は、約200万人。ところが、日本が戦争で殺した人の数は、その10倍の約2,000万人と言われています。アジア諸国の対日感情、従軍慰安婦問題、中国残留孤児問題など、今もなお、ぬぐいさることのできない歴然たる事実が存在しています。
 今でこそ、当然のように平和の上であぐらをかいている私たち。富士市で実際に起きた戦争の悲劇を通して、本当の平和について考えてみませんか。


 知っていましたか。戦時中、富士市に陸軍の飛行場があったこと。そして、その建設にまつわる悲劇があったということを。
 富士川河口の東岸、富士南中の北側から自由ヶ丘団地、三四軒屋までの一帯は、整然と区画整理されています。これは、第二次世界大戦の末期、そこに陸軍の「富士飛行場」があったという証拠なのです。
 陸軍は、飛行場建設のために地元住民を強制移転させたり、朝鮮人や強制連行された中国人を過酷な条件のもとで働かせたりしました。
 また、この飛行場は特攻隊の訓練飛行場であったという文献も残っています。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 富士飛行場と不時着した戦闘機 後方に見えるのは愛鷹山(昭和19年12月31日撮影 杉沢忠一さん所蔵)


飛行場をつくるため軍の命令で引っ越し

 1944年(昭和19年)、陸軍は当時の富士町と田子浦村にまたがる宮下、五貫島地区に連絡飛行場を建設すると突然決めました。そして、宮下、五貫島地区の住民を富士見高校の校庭へ集め、建設予定地に住む210戸に対し、早急に移転するよう、強制的に通達しました。もちろん当時は軍のお達しに刃向かうことなどできません。集まった人たちの顔色は青ざめ、全く血の気を失っていたそうです。有無も言わさず承諾させられた住民たちは泣く泣く移転先を決め、引っ越しを進めていったのです。
 210戸もの大規模の移転には、苦労も多かったのでしょう。中でも墓地の移転が、かなり大変だったようです。当時はほとんど土葬だったので、墓を掘り返し、人骨を改めて火葬し直したのですが、頭の毛が残っているような新しい遺体も、墓から抱きかかえて出し、墓地の片隅で焼いたそうです。


強制連行されてきた504人の中国人

 1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)にかけて、華北(かほく)地方を中心に約4万人の中国人が日本に強制連行され、鉱山、軍事土建、港湾荷役など全国135か所の事業所で強制労働させられました。そして約7,000人が死亡したのです。
 富士市には、504人が連れてこられ、飛行場建設のための過酷な強制労働をさせ、半年余りの間に彼らの約1割を死に追いやりました。
 戦後、殉難(じゅんなん)中国人慰霊静岡県東部実行委員会が発行した「遺骨送還通信」第2号(1954年)には、富士飛行場に強制連行された二人の中国人が、その体験を語った談話が載っています。全文を要約して紹介すると…
 「私たちは、1944年7月末、天津市路上で突然日本憲兵に手錠をかけられ拉致された。同じように拉致された人々は三十数人で、天津駅から数珠つなぎなって収容所へ送られた。
 この収容所の周囲には、二重の鉄条網に高圧電流を通して逃亡を防いでいた。食物はターピンズ(トウモロコシを焼いたもち)と生ネギだが、半焼きで配給されるので下痢が続出した。もちろん手当てはされなかった。収容されているのは、戦争にまったく関係のない中国の農民、商人、市民など約3,000人だった。
 2か月から3か月たって船に乗せられ、1944年10月中旬、私たちは富士飛行場に到着し、作業に従事させられた。作業は朝6時から夜6時まで12時間休みなしの重労働。最初のころの食事は中国から持ってきたトウモロコシ、里芋粉やメリケン粉を練ったものだったが、やがて空腹に耐えられず、バッタ、ネズミ、ヘビ、カエルなど手当たり次第に食べた。
 こうして生命をつないだが、中には耐え兼ねて自殺する者もでたり、警察官に虐殺された者もいたり、半年間で死亡者は六十数人にも達した」


とてもひどかった中国人労働者の生活

 戦争末期といえば、衣食住の状況は悪く、特に食料のない時期でした。まして中国人の置かれた環境は、とてもひどいようでした。
 中国人の宿舎は、木造バラックで、竹のさくの中にありました。ふろはあったようですが、付近の住民が宿舎に近づくと、ノミで足が真っ黒になるほど衛生状態はよくなかったそうです。
 場所は、三四軒部落(今のディアナ号のいかりのある公園付近)の西側。当時の海岸堤防は今のように高くてしっかりしたものではなく、低く土を盛っただけのものでした。
 連日の肉体労働にもかかわらず、食事は、朝は雑炊、昼と夜はマントウ(パンのようなもの)と汁だけ。汁といっても塩で味つけしただけで、具はほとんどなかったそうです。
 三四軒屋に住むあるお年寄りは、当時の中国人たちのことを次のように語っています。「食べ物が足らず、かわいそうだったから、働きに行く中国人たちの行列に合うと、時々サツマイモや切り干し芋をこっそり上げていた。見つかると、むちで打たれたりしていたね。また、中国人たちは、働きに行くときに、よく歌を歌っていたけど、中国語のわかる人に聞いたら、故郷に残してきた妻や子供のことを思う歌だと言っていた。とにかくかわいそうだったよ」
 また、助六に住むあるお年寄りは、「中国人は、ヨタヨタしていてひどかった。食べ物が欲しいので昼休みも休まず、住民の防空ごうづくりを手伝って芋をもらったりしていた」と語っています。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 富士飛行場跡地の耕地整理(昭和30年ごろ)


多くの悲惨な死 遺骨となって祖国へ

 強制連行された中国人の504人中、富士市で死亡したのは49人。ほかに富士市まで連行される間に3人が亡くなっています。その死因は、肺炎や胃腸炎がほとんどです。連日の肉体労働と厳しい冬の寒さに耐えるための最低限の衣食住さえ保証されなかった状況が、彼らを死に追いやったのです。
 また、要求交渉を行ったため逮捕された5人の中国人のうち、四人は警察署または刑務所で死亡しており、拷問による惨殺と推定されています。
 富士市での死亡者は、仲間たちの手で宿舎近くの中丸共同墓地に埋葬されました。
 1945年8月15日、第二次世界大戦は終戦を迎えましたが、共同墓地に埋葬された遺骨が、ようやく祖国へ送還されたのは1954年(昭和29年)のことでした。その年の5月に遺骨を発掘し、11月に遺骨は、祖国の中国へ帰ることができたのです。

 *以上の文は、富士南の郷土史「ききょうの里」に掲載された加藤善夫さんの文をもとに、今回取材し、加筆したものです。


私が見た中国人労働者の生活

佐野みよ子さん(三四軒屋)
- 写真あり -

 私が女学生だった昭和19年の秋ごろでした。飛行場建設のため、500人余りの中国人が三四軒屋にやってきました。むちを持った監督に監視されながら、隊列を組んで、黙々と飛行場へ向かう姿が、今もはっきり思い出されます。私はとても怖かったので、いつも物陰に隠れて見ていました。
 また、宿舎から少し離れた西側には、病人を隔離した小屋がありました。青ざめた顔で小さな窓から外を眺めている中国人の姿を何回か見たことがあります。
 戦後、バラックの宿舎が取り払われ、跡は畑になりました。その畑を通ったとき、モンペをはいた足が、いやにかゆいのです。家に帰り、モンペを脱いでみると、縫い目から足に、びっしりとノミが吸いついていたのです。こんなところにも「飢え」以外の死につながる原因があったのではないでしょうか。

整備兵とおばあさん

 ある日、家の前の畑で飛行機の整備兵が何やら先輩の整備兵にしかられていました。殴ったり、けったりと、かなりのしかり方です。そこへあるおばあさんが通りかかりました。すると、そのおばあさんは先輩の整備兵に向かって大きな声で怒りました。「簡単に人の頭を殴ったりするもんじゃにゃ−、おらの息子は今、戦地に行ってるけんど、息子もそんなふうに殴られたりしているのかと思うと腹がたってくる」と、えらいけんまくです。先輩の整備兵は、もう一人を連れて、飛行場の方へ帰っていきました。

特殊潜航艇の少年

 終戦の一週間前、特殊潜航艇(一人乗りで敵艦に特攻する)が三四軒屋の浜に上がりました。中から出てきたのは、少年でした。航路を間違え、迷い込んだそうです。
 そこへ、たまたま負傷して帰郷していた兵隊さんがやってきて、「こんなところへ迷い込むなんて、お前のようなやつがいるから日本は苦戦しているんだ」と、しかりつけました。
 その後の詳しいことは、余り覚えていませんが、すぐに終戦を迎え、その少年は結局、命拾いしたんでしょうね。

 戦争の悲劇を忘れないよう、いつまでも平和であり続けるよう、私たちは「戦争と平和」について語り続けていきます。
  広報ふじ編集スタッフ一同


'94平和のための戦争展

8月8日(月曜日)〜12日(金曜日) 市役所2階 市民ギャラリー
●日本は中国で何をしたか
●戦時下の富士市民の暮らし
●絵本の中の戦争
●平和の日本・平和の世界
●広島・長崎そして沖縄の惨禍
《すいとんの試食》
8月8日12時〜14時
主催
核兵器廃絶平和富士市民の会
平和のための戦争展執行委員会


終戦当時の引揚者の皆さんへ

 名古屋税関では、引揚者の皆さんからお預かりした通貨、証券などをお返ししています。返還の申し出は、ご本人だけでなく、ご家族でも結構です。
対象
・引き掲げてきた上陸地の税関、または海運局に預けた通貨や証券など
・外地の総領事館などに預けた通貨や証券など

問い合わせ
 清水税関支署 田子の浦出張所 電話33-2791・0598


富士飛行場は、実は特攻隊の訓練飛行場だった!?

(八塩弘二著『15時5分前〜ある学徒兵の自分史』(論創社)より「我れ特攻を“希望せず”」*紙面の都合上、一部修正)

 昭和20年の元日を、富士飛行場で迎えた。
 飛行場長福田少佐以下航空隊員の全員が、早朝飛行場に整列し、冷酒で乾杯した。歯にしみる冷たさであったが、甘さがいつまでも口中に残った。
 「いよいよ本年は、本土決戦の年である。われわれ航空隊員は、全員特攻となって、この国難を打開しよう」という趣旨の、福田少佐の訓示があった。
 1月中に、B29の大編隊は、東京、名古屋、阪神地区を空襲し、その後も都市空襲はますます熾烈(しれつ)となったので、もはや前線も銃後もなかった。航続距離5,600キロメートルのB29が、サイパンを爆撃基地として使用するようになってからは、東北地方の一部を除く日本本土が、すっぽりとその爆撃圏内に入ってしまった。
 台湾の実施学校で基本戦技訓練を終わっている私たちは、本来は練成飛行隊に配属され、実用機による補修教育(原則は3か月)を受けるはずであった。当時の戦況から、補修教育期間を短縮ないしゼロにしても、実戦部隊で実用機を操縦する段階になっていたが、富士飛行場では、実用機は一機も配備されていなかった。やむを得ず、私たちは、もう一度実施学校の訓練を復習するような結果になった。
 そんな訓練中、飛行機のエンジンが空中で停止するという事故に遭遇した。
 それは助教との、一対一の空中戦闘のさなかであった。
 飛行機の故障に気づいた助教機が接近してきて、近くを飛んでいたので、翼を振って訓練離脱の合図を送り、助教機もまた、了解の合図を送ってきた。
 高度計を見ると、また1,000メートルくらいの高度があり、左前方のかなたには、白い海岸線が眺められた。田子の浦の上空で、戦闘訓練を実施していたのである。
 とっさに、(海岸線に沿って不時着しよう)と考えた。障害物のない海上での不時着が、最も安全である。97戦は固定脚なので、砂浜への不時着は必ず転覆する。しかし、飛行機を海に沈めないという利点はある。
 〈海上か〉、〈砂浜にするか〉
と考えたとき、〈いや、待てよ……〉とひらめいた。
〈これだけ高度があれば、空中滑走でも飛行場に入れるぞ……〉と考えたのである。
 機首を飛行場に向けた。着陸地点の決断は、ほんの2秒から3秒の時間である。
 降下角度を深くして加速すると、プロペラは音もなく回転するが、水平飛行に移して速度が低下し、失速近い状態になると、プロペラは回転を停止して棒状になることを、降下しながら実験した。飛行機は、今や、グライダーと全く同じ状態になったのである。
 飛行場に接近したとき、まだ高度は300メートルくらいあった。エンジンの停止した飛行機を、かなりうまくコントロールしてきたことになろう。
〈正常着陸できる〉と判断し、ピストの真上で、ほぼ180度旋回したあと、飛行場南側の格納庫の上空を飛んで、東側から飛行場へ進入するための、最後の旋回動作に移った。
 慌てたのはその直後である。
 ピストの上で旋回したときは、深い降下角度で十分に加速していたのであったが、格納庫の上空を、ほぼ水平飛行で飛ぶ間に、急激に速度が低下し、着陸のための、最後の旋回動作を開始したとときには、降下旋回をしながら加速しなければ、失速しそうな状態になっていた。けん引力を失った飛行機が、旋回中に、いかに急速に落下速度を早めるかは、予測をはるかに超えていたのである。
 失速して墜落するか!
 機首を地面に突さ立てるようにして地上に激突するか!
 間一髪で、地上すれすれに体勢を水平に戻せるか!
 それは、何分の1秒かの時間内の、判断と決断と行動とであった。
 地上への激突を覚悟して、地面に機首を突さ刺すように旋回した。恐怖に、全身総毛立つ思いであった。
 一瞬のかけであったが、そのかけに成功した。地上すれすれで旋回を終わり、飛行機の姿勢を水平にしたときは3点姿勢で着陸していた。多分その時、顔面そう白になっていたであろう。飛行機が停止したのは、飛行場の東端50メートルくらいのところであった。座席から降りてエンジンを外部から点検すると、星型エンジン(九気筒)の左上部の気筒が1個破裂して、割れた気筒の一部が垂れ下がっていた。
 ピストに帰って教官の本田中尉に報告すると、
 「事故に際して沈着冷静、非常によろしい」
と褒められた。飛行機に乗るようになって、操縦で褒められたのは、この時が最初であって最後でもあった。
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