富士市は、言わずと知れた工業都市。発展の背景には、湧水などの豊かな自然や、東海道沿いという恵まれた立地条件がありました。東海道は江戸と京都を結び、大名行列やお茶つぼ道中など、多くの人や物が行き交い、文化や産業の流通に大きな役割を果たしたのです。
東海道は、さまざまな歴史に彩られたロマンチック街道。西暦2001年には、東海道に宿駅(宿場)ができて400周年を迎えます。東海道の歴史を再発見し、21世紀の未来へ向けて、あなたの夢を広げてみませんか。
- 図表あり -
東海道の歴史をひも解くと…
慶長5年(西暦1600年)の関ヶ原合戦で圧勝し、名実ともに天下の覇者となった徳川家康は、政治の拠点を江戸に置き、江戸と京都など各地を結ぶ街道の整備を行いました。
街道には、幹線道として五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)や、これから分かれる支線道、脇(わき)街道がありました。これらの街道は庶民の旅行や、文化、経済の発展を当初の目的として整備されたのではなく、あくまでも幕府の公用を最優先するという政治的配慮からつくられました。
東海道には、日本橋を起点として、一里(約4キロメートル)ごとにエノキ、杉、松などを植えた一里塚を置き、街道の距離の目印などに利用されました。また、杉や松の並木をつくり、旅人にとって、夏は木陰で休んだり、冬は寒風を防ぐのに役立ったようです。
また、幕府は治安を守るため、東海道の箱根や新居などに関所を置きました。そして、大きな河川には橋をかけることを禁止したので、川を渡るには渡し船や川越人足などを利用しなくてはなりませんでした。富士川は流れが急なため、渡し船で渡っていたのですが、大部分の船は水神の森付近から出ていたようです。
吉原宿の歴史は津波との闘い
徳川家康は、東海道などの五街道を中心に宿駅(宿場)を定めました。吉原宿が成立したのは、慶長6年(西暦1601年)とのことでした。
吉原宿は、富士宮を通って山梨県へ魚や塩などを運ぶ街道と、十里木を通って足柄峠や籠坂(かごさか)峠を越える街道の出発点になっていました。また、和田川を利用して、富士山麓でとれる炭などを吉原河岸から小舟に積んで、清水湊(みなと)や沼津湊(みなと)へ送る水上交通の場でもあったので、旅籠(はたご)の数も宿場の人口も多かったようです。
最初に吉原宿のあった場所は、今の元吉原地区。しかし、しばしば津波の被害を受けたため、宿場は何度も移動することになったのです。東海道は、宿場と宿場を結んでいたので、宿場の位置が変われば、当然のように道筋も変化していきました。
吉原宿は、寛永16年(西暦1639年)の大津波が原因で、今の依田原付近(中吉原)へ。それでも延宝8年(西暦1680年)など、大津波の被害があったため、天和2年(西暦1682年)に現在の吉原へ移ったのです。
延宝8年の大津波では、「死者120人、行方不明は多数」という記録も残っています。
吉原宿の移転は左富士の生みの親
吉原宿は、津波の被害から逃げるように北上していきました。そのため、江戸から京都へ向かう東海道は、元吉原を過ぎると、緩やかに曲がって北上するので、その間の地点からは、富士山が左側に見えます。左富士は、吉原宿が移転した歴史の産物なのです。
東海道宿駅制度開設400周年記念事業のアイデア募集
西暦2001年の東海道宿駅制度開設400周年を迎え、静岡県の魅力をアピールする記念事業を行います。その事業について楽しさいっぱいのアイデアを募集します。
応募規格
・400字詰め原稿用紙2枚以内
・1枚目の初めにタイトル、住所、氏名、年齢、性別、職業または学校名(学年)、電話番号を記入
最優秀賞
ドイツロマンチック街道ご招待または30万円
*応募者全員に「歴史の道」ウォークマップを差し上げます
応募先
〒420 静岡市追手町9-6 静岡県東海道歴史のふるさとづくり推進協議会事務局(静岡県総務部市町村課地域振興室)へ 電話054-221-3341
*7月30日の消印まで有効
問い合わせ 企画課 内線2837