「手児の呼坂」(たごのよぶさか)
原田地区の民話「手児の呼坂」(たごのよぶさか)を創作太鼓の代表曲としている原田清流子供太鼓保存会が中心となり、この民話を後世まで伝えていくため、原田公園に「手児の呼坂」の記念碑が建てられました。この民話について、保存会会長の桜井久さんに語ってもらいました。
*手児…娘のこと
昔、松原川沿いに、見事な枝の松があり、その近くに、それは美しい娘が住んでいました。ところが、このまばゆいばかりの美しさに声をかける勇気のある若者は、里には一人もいませんでした。
ある初夏の夕方、娘が川沿いに歩いていると、数え切れない蛍の光が帯となって川を照らしていました。この世のものとも思われない美しさに、娘は我を忘れて見入っていたのですが、ふと気づくと、笛の音が聞こえてきました。笛の主は、里では見かけない若者です。その若者は、愛鷹山の向こうから来たアイヌの若者でした。若者は「蛍の光に照らし出されたあなたは、とてもきれいでした。私の思いがあなたに届くようにと笛を吹きました」と打ち明けました。娘の顔は真っ赤になりました。
それから毎日、若者は長く険しい道を通い続け、娘に会いに来ました。会いたい気持ちは娘も同じ。娘は、小高い坂の上で若者を待ち、毎日が夢のように、楽しく過ぎていきました。
しかし、それもそう長くは続きませんでした。ひそかに娘を思う里の若者たちが、二人を妨害してきたのです。それでもアイヌの若者はあきらめず、長く険しい道を通い続けたのですが、会えない日が幾日も続きました。
娘は毎晩、坂の途中にたたずみ若者を待ち続けました。ところがいくら恋しい若者の名を呼び続けても、切なく悲しい呼び声は、松原川の松を揺らすだけで、若者のもとへは届きませんでした。
こうして、この坂は「手児の呼板」と呼ばれるようになったとか。
それから数年後、娘はすっかりやせ細ってしまいました。ひとり寂しく川辺を歩いていると、蛍の集団が娘の回りを取り囲み、花車に乗せて天高く舞い上がって愛鷹山を目指して消えていきました。
里の著者たちは以前の行為を深く反省して、娘の幸せをみんなで祈ったということです。
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( 写真説明 ) ことしの3月に行われた「手児の呼坂」記念碑の除幕式
( 写真説明 ) 原田公園の記念碑
桜井 久さん(原田)
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「私の友人だった故田村和夫さん(郷土史家)が生前、「手児の呼坂」についての資料内容を、私に詳しく話してくれました。
しかし、この民話は、地元に伝わる「呼子坂(よびこざか)」と混同されているためか、あまり知られていません。この「手児の呼坂」の民話は、ぜひ後世に伝えたいと思います。
昨年9月に広報ふじについて調査をしたところ、「ふるさとの昔話」を復活させてほしいという意見が、数多くありました。
皆さんのご要望におこたえして今回から「富士の民話 あれこれ」を掲載します。我が町、我が心の民話を、ぜひお聞かせください。