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【広報ふじ平成5年】夏。平和を考える季節

 1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされました。次いで9日には長崎も被爆。そして8月15日、日本は終戦を迎えました。
 第二次世界大戦が終わって、ことしは48年目。戦争を知らない世代が、人口の半数を超えました。しかし想像力を働かせれば、戦争は人々が決して望まない悲惨な事態であったこと、広島・長崎への原爆投下で、21万人もの死者が出たことや、現在もなお、さまざまな戦争体験で苦しむ人のことなどを考えあわせれば、いかにむごたらしいものであったかがわかります。
 私たちは日常生活の中でも、とかく自分の被害の部分だけをとらえがちですが、戦争中日本は、韓国、朝鮮、中国、東南アジアへ加害した紛れもない事実があります。内外あわせると二千数百万人と言われている犠牲者。今は事実をしっかり受けとめ、考え、生きる知恵とすることが大切ではないでしょうか。
 富士市は昭和60年、核兵器廃絶平和都市宣言を行いました。全国で約1,800の市町村と同じように、核兵器の廃絶と平和を強く訴えています。今回の広報ふじ六百号のテーマは平和。中学生と一緒に、平和の意味について考えてみませんか。

●核兵器廃絶平和都市宣言
 戦争の惨禍(さんか)をなくし 世界の恒久(こうきゅう)平和を実現することは 全人類の願いであり 世界で初めての被爆(ひばく)体験を持つ日本国民の悲願(ひがん)である
 しかしながら 核軍備拡大競争は 依然として進み 平和に対する 深刻な脅威(きょうい)と 戦争の危険は後退してはいない
 富士市は 平和憲法のもとで 平和で明るい生活を享受(きょうじゅ)するため 市民憲章を制定し 市民の行動原理として培(つちか)ってきている
 富士市民は 戦争をなくし 真(しん)の平和を実現するための努力を明らかにし富士山のように 広く 美しく 高く たくましく 正しく生きることを 悠久(ゆうきゅう)の理想として 非核三原則(ひかくさんげんそく)を遵守(じゅんしゅ)し すべての核兵器の廃絶(はいぜつ)を求めることを市民の総意(そうい)とする平和都市を ここに宣言する
  昭和60年11月19日 富士市
- 写真あり -
( 写真説明 ) 「富士の語りべ」の話に聞き入る須津中文芸部員


Peace
埋もれた戦争体験を、単なる回想談に終わらせることなく、今に語り継ぎながら、平和のために、意味あるものにつなげたい。

富士の語りべ
恒久平和のために体験を語り継ごう
あくまでも中立を保ち、事実を発表することに徹する
代表 橋口 傑さん
- 写真あり -
( 写真説明 ) 富士の語りべ例会


平和のために、行動するグループ

 市内には、平和のために「今何をしなければならないのか」と考え、行動しているグループがあります。例えば、「核兵器廃絶平和富士市民の会」や「平和のための戦争展実行委員会」など。
 「平和のための戦争展実行委員会」は、8月9日から第6回目の「戦争展」を開きます。毎年大勢の人が訪れ、それぞれの思いで展示品に見入っています。ことしも一人でも多くの人に見てほしいからと、準備に余念がありません。
 もう一つのグループは、「富士の語りべ」。恒久平和のために、戦争体験を語り継ごうという会です。
 「富士の語りべ」の会が発足したのは、1989年9月9日。ことしの7月11日で、第24回目を迎えるまでになりました。隔月に集まって、戦争体験者の話をじっくり聞きます。
 「語りべ」さんにお願いするのは、自分のやったことや見たことを、正直にそのまま話してもらうこと、決して脚色はしないことなど。
 戦争体験となると、ほとんどが60歳以上の人ですから、自分の青春であり苦労した戦争がなつかしいと感じる人もいます。しかし、単なる回想談に終わらせたくはありません。今に語り継ぎながら、平和のために意味あるものにつなげたいと考えているのです。


中学生に語る戦争体験

 「語りべ」の代表である橋口傑さんと事務局の高柳福政さんは、7月のある日、須津中学校を訪問しました。文芸部の部員に戦争体験を語ろうというのです。
 かつて湾岸戦争のときのミサイル攻撃を、中学生は「花火のようだ。インベーダーゲームのようだ」と感じたそうです。中学生にとっての戦争は漠然として、テレビで見たり本で読む世界でしかありません。そういった中学生に「戦争を正しく理解してほしい。そしてその中から平和を考えてほしい」 の思いがあったのです。
 橋口さんと高柳さんが語った戦争体験は、一人の女性の被爆体験と旧満州での加害、そして戦争中の暮らしでした。原爆投下日の、さながら地獄絵巻を見るような様子や、母を亡くした悲しい思い。また、飢えの極限状態と加害の歴史、配給のことや食糧のこと、機銃掃射を受けて麦畑へ逃げ込んだことなどを話していただきました。


第6回戦争展 
8月9日〜13日
市役所2階 市民ギャラリー
アジアの国々への侵略加害
従軍慰安婦と戦後補償
シベリア強制労働で亡くなった人々
戦争の広がりと富士市民の暮らしなど
●主催 核兵器廃絶平和富士市民の会
    平和のための戦争展実行委員会


お貸しします
★16ミリ映画フィルム
1 核戦争後の地球
  第1部「地球炎上」 (30分)
  第2部「地球凍結」 (30分)
2 おこりじぞう    (27分)
3 おかあさんの木   (20分)
4 100番目のサル  (20分)
5 核戦争       (15分)
★ビデオテープ
1 核戦争後の地球
  第1部「地球炎上」    (30分)
  第2部「地球凍結」    (30分)
2 ほたるの墓        (90分)
3 チェルノブイリ・クライシス(57分)
4 教えられなかった戦争  (110分)
5 証言侵略戦争       (43分)

◆申し込み◆
広報広聴課 内線2823

中学生に語るある被爆体験者の話 被爆者として生き、後世に伝えたい

 この話は、市内に住む一人の女性の被爆体験記録です。「40何年たった今でも、広島もん、原爆もんと呼ばれて苦労してきました。私は、『被爆者』ってだれにでも言います。だけど、それを言えない人が大勢いるんです。子供の結婚にさわるとか、遺伝するとか言われて……。
 私は何も、哀れみをかけられて生きたくはないし、気の毒だと思わなくてもいいから、せめて、人並みに扱ってほしい。これからも被爆者として生き、後世に伝えたいと思います」。
(聞き書きの体験記録を高柳福政さんが朗読しました)
- 写真あり -

・・・広島は、一瞬にして焼け野原と化しました。太田川は死体で埋めつくされ、生きている人の皮膚は焼きただれて、ワカメのように垂れ下がっていました。・・・ 

 ダーンと大きな音がしてね。それで「あれあれ何だろう。大きな爆弾落としただね」ってね。外に出たら、モウモウとしてるでしょう。「へえ、どこがやられたのかしらね」って言っていたんです。
 それまで広島は、何にも空襲がなかったんです。それが朝からそういうふうになったでしょう。それでね、そのうちザァーッとね、黒い雨が降ってきて、「あっ、これは大変だ」と、家の中に入ると同時に、グラグラと家が揺れてね。仏様もたんすも、家が海岸端だったもんで、みんな倒れたの。
 また飛び出して行ってね。出たり入ったり、床も抜けちゃってね。畳も持ち上がっちゃってね。夏で格子戸でしたが、それもバラバラになって、「どういうことだろうかね」と言ってたら、そのうち向こうからゾロゾロね。観光道路って広い通がありまして、そこを「爆風でやられた人たちが通ってくる」と言うもんで、行ってみたですよね。
 そしたら、まあ、さながら地獄絵巻ですよね。皮がペローンとはげたまま子供を抱いている。その子供が死んでいるのもわからないでね。フラフラーとね。いつ果てるともなく、ゾロゾロゾロゾロくるですよね。
 「あなたどこから!」って聞くと、「ちょっと離れたとこ。川一つ隔てた観音町から橋を渡って来ました」と言うんです。「へえ、あそこらもそんなにやられたですか。私は広瀬北町ですけど、どうでしょうか」って開きましたら「もうだめでしょうよ」なんて言うですよね。

・・・母が亡くなりました。親戚(しんせき)に知らせましたが、「広島の街へ行った者はみんな死んでしまう」とささやかれ、来ることをしぶりました。・・・ 

 母親は元気がいいもんで、ちょっとかすり傷があったくらいです。それで15日が終戦で、9月の4日に亡くなったんですけど、8月の28日ぐらいから、どうもこの手の方に斑点(はんてん)ができまして、「あれ−、これはー、体がだるい」と言い出しましてね。
 「おかしいねー。どうしたのかねー」と言いながら、そのうち動けなくなって、それで出血をするんですよね。肛門から、肛門からだけ。
 それで医者に診てもらうときに、医者っていう医者もいないんですよね。みんな死んじゃってね。近回りの医者、やっと頼んで連れて来て診てもらったらね、その「原爆症」なんてわかんないでしょう。「これは赤痢かもわかんないから、入院させなきゃあいけない」って言うんですよね。
 母親はね、毎日毎日、毎日もう出血して、寝ててもね、こう首があるでしょう。その下は布団をかけても、ぺチャンコなんです。骨が脊髄から溶けてゆくんですってね。     (中略)
 (母は)重湯を一杯飲んで、「ああおいしかった。もう一杯飲ましておくれ」って言うですよ。それでもう一杯もらって、それを飲んで、それがむせてね。そして、もうシャックリみたいになりましてね。それがやっとやんだところで変になりましてね。私は必死になって医者に「来てー、来てー」って頼みに行ったけど、なかなか来てくんなくてね。やっと来たところで、息を引き取りました。
 朝ね、「すぐ焼くか」って言ったけど、「私一人で決めるわけにはいかないから、親戚があるからそこに行ってくる」と言って、テクテク歩いて親戚の家まで行ったです。
 そして、お母さんが亡くなってこうだって話したら、「今あの街へ行ったらみんな死んじゃうから、なんでもない人が行きたくねーけんど、行かないじゃあおれないから」って。
 みんなで歩いてね。そしたら、もう始末してあったです。死体がね。それで、前の焼け野原の家の焼けた跡の整理をしてね。そこでね、「あんたのお母さんは、向こうから何番目」って言われて、それで数えて「あっ、これだな」って思ってね。骨を入れるものがないですよね。で、そこらにあった新聞を拾ってきたり、それこそ焼けてチョコチョコ穴のあいたふろしきに骨を拾って・・・そんな悲しい思いをしました。本当に40何年たったって、忘れられないですよね。
(紙面の都合で一部分だけの掲載です)

中学生に語る戦争体験者の話

飢えと加害を語る
富士の語りべ
代表 橋口 傑さん
- 写真あり -

満州国での飢えと加害

 「満州国」って聞いたことある?開拓団や義勇軍のことは?富士市からは、300人くらい義勇軍で満州(中国)へ行っているんだよ。
 今原爆の話をしてもらいましたが、広島で14万人、長崎で7万人が一瞬の間に死んでいます。
 さっきの満州国には、開拓団と義勇軍全部で35万人(日本人)が行き、引き揚げのあった昭和20年から21年の間に18万人が死んでいる。ほとんどが飢え死に。食べるものがなくてね。僕は昭和20年の10月、ソ連軍に捕まり収容所に入りました。そのときは丸2か月、ほとんど何も食べてませんから栄養失調になりましてね。収容所の外の大根葉を食べて生き延びました。
 飢えてくると、見るものが全部食べるものに見えて、馬ふんもジャガイモそっくりに見えるんです。死んだ人の肉を食べたって話も聞きました。肥えた人を見ると、「あの人を食べたらおいしいだろうな」と思いますよ。これが、本当に飢えた人の気持ちです。
 戦争で日本人がこうむった被害の大きなものは、広島・長崎や満州ですが、皆さんも聞いたことがあるだろうと思うのが、南京の虐殺。資料を調べると、恐らく30万の人を殺しているんじゃあないかと思います。
 戦争にかかわって死んだ人の数、軍人も広島・長崎・満州など一般の人も含めて、大体日本人は200万人と言われています。ところが、日本が戦争をしかけて殺した相手の人たちの数は幾らかって言いますと、2,000万人。これが、日本のアジア諸国への加害です。
 大きな加害はそうなりますが、僕らが現在の生活で、加害はなにもしてないでしょうか。いじめも加害の一つだと思いますね。それから、白人に対して日本人は卑屈になるような気がするんです。ところが逆に、黄色人種には優越感を持って傲慢になってしまう。それも僕は加害だと思ってるんですが、皆さんはどうでしょうか。
 戦争って、僕は殺すか殺されるかのゲームだと思っています。自分が相手を殺さなければ、自分が殺される。本当に愚かですよね。皆さんが大人になったときには、絶対に戦争はしないという気持ちを、ぜひ持ってほしいと思います。


戦争中の暮らし
富士の語りべ
事務局 高柳福政さん
- 写真あり -

戦争中の食糧と暮らしのこと

 私は、今泉の土地っ子です。小学5年生のときが敗戦の年です。食糧のことを話しますと、配給の米が1日2合。
 学校へ行きますと、先生が弁当の検査をしました。たまたま私の家は田んぼがありまして、米の飯も食べましたが、白い米が入っていると「おまえ、これ白過ぎる」ってしかられました。
 だから、麦を入れました。農家でない家は、米は半分以下、あとは麦です。米が足りなくて、サツマイモのつるも配給になりました。学校では、運動場の真ん中を残して、あとはサツマイモ畑。百姓の長男でしたから、先頭に立って耕しました。
 私がどうしても忘れられないことは、その当時小学校4年、5年は、石油のかわりに燃料として使う、松やにを取りに行かされました。富士東高校の横にある木の宮神社、ここには50本から100本近い松があって、当番で松にのこぎりできずをつけ、バケツにたまった松やにを登校するときに持って行くわけです。
 そうすると、ちょうどその時間帯にアメリカの戦闘機「グラマン」9機がやってきて機銃掃射。もちろん爆弾を落とします。周りの麦畑に逃げ込み、麦の間から見てますと、飛行機の操縦士の顔が見えるんです。それくらい低くおりてきます。そして、バラバラ薬きょうが落ちてきます。もうね、震えちゃう。なにしろ九機ですから、それが行き過ぎるまで、麦畑の中でじいっとしてる。ピタッと人間の動きがとまります。そのとき、日産とか大昭和に爆弾が落とされました。
 8月15日は、晴天でした。友達と遊んでいると、どうも様子がおかしい。人々が外に出てこないし、家の中で泣いている声も聞こえる。町内の人が来て「(日本が)負けた」と知りました。

「満州国」満州事変により、日本がつくり上げた国。
「義勇軍」満蒙開拓青少年義勇軍といい、15歳から18歳までの青少年が入っていた。
「開拓団」 新天地を求め、中国に渡った人々。
「配給」数を限って、物資を与える制度。

中学生対談 私の思った戦争と平和

文芸部指導教諭
渡辺弘子さん
- 写真あり -

2年
神田真澄(ますみ)さん
- 写真あり -

2年
前田梨沙(りさ)さん
- 写真あり -

1年
松下智子(ともこ)さん
- 写真あり -

2年(部長)
半田万喜(まき)さん
- 写真あり -

2年(副部長)
大森和悦(かずよし)くん
- 写真あり -


橋口
 始めに、質問に答えましょうか。
前田
 飢えてきたとき、どんな思いでしたか。
橋口
 こんな飽食の時代になりますと、飢えってことは想像できないと思いますけれど、(中国で)女も子供も中国人の襲撃を避け、山の中を逃げ回るわけです。
僕らが避難を始めたときにまず言ったことは、「塩だけは持っていきなさい。それと、青酸カリ」。青酸カリは、一人分の致死量を紙に包んで、各人に持たせました。何かのときには、これで自分の命を絶つのですよと。これで、大勢の人が自決したんだと思います。
 飢えてるときは、とにかく目が覚めている間は、ものを食べたい一心ですよね。何でもいいから食べたい。草を食べ、死んだ人の肉も食べた。飢えの極限は、そういう状態になるってことです。常識も何もない。
大森
 学校では、戦争についてどのような教育をしていたのですか。
橋口
 僕たちが小さいころには、いわゆる「教育勅語」で教育されました。「国のために忠義を尽くさなければいけない。親に孝行しなければいけない」ということばかり教えられてきましたね。中国やどこどこが悪いことをするから、日本の国益のために戦争するんだって言われますと、それが本当かなと思いました。その当時は、言われることが絶対正しいと思い込んでいたことは事実です。何も疑問は持っていませんでした。
前田
 私たちが今しなければならないことは、戦争を正しく知り、真の国際平和に責献することだと思いますが、今の若者をどう思いますか。
橋口
 「語りべ」の会は、いろんな人の話を聞いて、記録で残そうとしています。一番残念なのは、なかなか若い人が集まらなくて、一緒に話の中に入ってもらえないこと。で、それを何とかしたいと思うけれど、なかなかね。みんなはテレビや映画で戦争を見て、カッコイイと思う?僕は、それが一番恐ろしいことだと思っている。
渡辺
 思う子と思わない子がいます。湾岸戦争のときの「ウミウ」の姿を、子供たちはかわいそうだと思う反面、ミサイル攻撃は、テレビゲームの感覚でしかとらえてなかったんじゃあないかと思います。
半田
 防空ごうの中はどんな風でしたか。また、空襲警報が発生したときには、どんな行動をしたのですか。
高柳
 昭和18年くらいからつくられるようになりました。私の家のは6畳一間くらいの広さで、深さが、約2メートルの地下。木でふたをつくって、一番上にはトタンをかぶせます。中の状態は、換気がないのと湿度が高いこと。はしごで、おりたり上がったりしました。
 警報のことですけれど、警戒警報のときはまだ動きませんね。空襲になってくると、ラジオで情報が流れます。例えば「ただいま敵機は御前崎上空を富士山方面に向かって北進中」とか。爆音で大体の位置がわかりますから、富士川付近まで来たとき、一たん防空ごうに入りますけどね。ここのあたりは、京浜地区への爆撃コースでしたが、敵機の高度は1万メートルと高いためほとんど影響はなかったですね。
松下
 敗戦を知ったとき、どう思いましたか。
高柳
 「聖戦」という言葉を教わりました。負けるかもしれないなんて、夢にも思いません。7月末に校長先生がグラウンドに生徒を集め、「日本には、うっちゃりという相撲の手が残っている」とこう言うんです。で、「モンゴルにも二度攻められたけど負けなかった。だから今度も負けないんだ」と。負けを知ったときのショックはもう言いようがありません。私の大人に対する不信感は、そこから生まれるわけです。
渡辺
 「語りべ」の方のお話を開いて、ショックを受けたり、考え方の転換があったと思うけれど、それを話してみてください。
松下
 私は、今まで戦争のことはほとんど知識がありませんでした。だから、毎年夏が来てテレビで戦争や中国残留孤児の話を見ていても、ただ「かわいそう」としか考えていませんでした。しかし、お話を聞いて、かわいそうだと思っているだけではいけないと思いました。
 戦争を体験した方々は、二度と戦争を起こしてはいけないということを、常に語りかけてくださっていると思います。私たち戦争を知らない世代は、その声に耳を傾けなければならないと思いました。
大森
 戦争のことは、どうしても身近な問題としてとらえられず、自分にはあまり関係のないことだという感覚が心の中を支配していたのは確かです。
 また、日本が受けた被害のことばかりに目がいって、中国で悪いことをしていたなど、ほとんど考えてもいませんでした。自分は戦争とは直接かかわってはいないけれど、迫害っていうか、ほかの人を差別したり障害を持った人たちにはどうだったのか反省しました。
前田
 私が特に考えさせられたことは、肌の色の違いで自分たちよりレベルが上だと思ったり、レベルが下だと思っていることです。そうした日本人の差別の場面をよく見ます。これは考えなければならないことだと思います。
 夏休みに姉妹都市のオーシャンサイド市に派遣されます。真の心の交流を心がけるとともに、日本の歴史を考えて、他国の人々の感情に配慮したいと思います。
渡辺
 戦争のことを考え、みんなはこれからどういう風にしていったらいいと思う?
神田
 私は、友達のことをいじめたりとか無視したりしたこともあったから、これからは思いやりを持って人に接して、だれとでも仲よくできるようになりたい。
 お話の中で広島や長崎で原爆を落とされた地域の人が引っ越して来たりすると、「変な病気がうつる」「よそ者」「流れ者」と言われたそうです。何の罪もないのに。その人のせいではないのに。知らないままでいたら、私も「あの人は・・・・」という心ない人間になっていたかもしれません。日々の中で、差別の言葉を吐くことのないよう努力していきたいと思います。
半田
 私は、今の日本が平和ならそれでいいと思っていました。お話を聞いて、戦争は絶対に起こしてはいけないということを、改めて実感しました。
 戦争が起こってしまうというのは、国と国とが理解し合えないことだと思うので、お互いの文化や気持ちをわかり合えるような世の中にしていったらいいなと思います。これからは、日本は被害者の顔と加害者の顔の両面を持っていることも、忘れずに生活していこうと思います。正しい歴史を知った上で、謙虚な心で世界の人々と交われる人になりたいと思います。
 すばらしいお話を、本当にありがとうございました。
渡辺
 今回、戦争を体験した方にお話を伺えたことは、とても有意義なことだったと思います。体験をしなければ何もわからないと、同じ過ちを再び犯すのだったら、今の科学の発達からすると地球は全滅してしまう。
 体験を蓄えるというのは、実際にすることではなく、いわゆるお話を伺ったり本を読んだり、いろんなことを自分の目で見、耳で聞いて、心を耕していくのも、戦争体験になっていくのだと思います。そして、それが日常生活の中で生かされてこそ、本当の意味で国際人としての資質を養っていくのにもつながると思います。意見としては出てこなかったけれど、「自由にものが言えるってこと、書けるってこと」、すごいことだと思いませんか。戦争中は、自由にものが言えなかった。書けなかった。今の時代はいいなあと思います。

 以上が、「富士の語りべ」が須津中文芸部員に語ったお話であり、対談内容のあらましです。

 戦争を体験された方々は、それぞれが、それぞれに、深い思いで長い年月を生き抜いてこられました。
 広島・長崎の原爆投下日、終戦記念日と続く8月は、平和を考える季節でもあります。皆さんは戦争と平和を、どのように感じられたでしようか。感想をお聞かせください。
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