温かさや、やさしさのある人に皆が集まるように、魅力的な街にも人が集まります。
市は自然や歴史、そして文化や産業を生かした個性的なまちづくりに積極的に取り組んでいます。
その中でも、一番大きな事業は文化会館の建設。
ロゼシアターと、おしゃれな愛称も決まりました。
ロゼとはバラ色、シアターとは劇場を意味する言葉です。
文化会館は、まちづくりのキーワード。
見せて、聞かせて、魅せる、拠点となるところ。
今月号は、大きな関心と期待感いっぱいの、文化会館特集です
文化発信・街(まち)が変わる 動き始めた市民たち
文化会館が、熱い注目を浴びています。
総工費162億円の巨費を投じて建設される会館は、何よりも、文化的なまちづくりをイメージするからです。
少し古い参考資料ですが、昭和63年の第17回市民意識調査結果によると、「富士の街を『自分の街』として愛着を感じていますか」との質問に対して、71.1%の人は、「感じている」と答えています。
その理由は「気候が温暖だから」、「自然に恵まれているから」の両方で、51%にも達しています。しかし、「公共施設や道路など都市基盤が充実している」は4.5%、「教育、福祉、文化水準が高いから」は2.5%にすぎませんでした。
ここ数年、心にゆとりのある生活スタイルや、文化的な豊かさを求める声が高まってきています。そうした変化に対応して建設される文化会館は、大きな関心と期待を持たれています。文化会館ができ上がると、街はどう変わるのだろうかとか、文化的な雰囲気のある街になるのだろうかと言う声も耳にします。
ことしの4月、市は「富士文化振興財団」を設立しました。市民の皆さんの文化活動を応援したり、もっとふだんの生活の中で文化に親しんでいただくために、いろいろな事業を行っていくものです。
『遠くに出かけなくても一流の芸術が楽しめるようにします。市民手づくりのオペラやミュージカルなど、地域独自の文化づくりを進めます。文化活動の種まき、育てます』が、キャッチフレーズ。このほかにも、施設の貸し出しなどの体制も整いつつあります。
これらは文化振興財団が行う事業ですが、これと同じように、市民がみずから演じ、歌い、交歓しながら楽しむ文化活動も、とても大切なことではないでしょうか。
さまざまな思いを人形に託して、完成後の文化会館の一角に飾ろうと計画している「人形オーケストラづくり」。ディアナ号の市民ミュージカルを上演しようと張り切る、「市民ミュージカル制作準備会」。
今、文化会館の完成を心待ちにしながら、楽しんで地域の文化をつくる活動に動き始めた皆さんがいます。
既に、建物の概要はお知らせしました。今月号は、小さな芽が大きく育つように、「地域文化の仕掛け人・動き始めた市民たち」を追ってみました。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 外観模型
文化振興財団からのお知らせ
生の音に触れ鑑賞マナーを身につけてほしいと、学校コンサートを開きます。富士市文化振興財団が、特に力を入れていきたいと考えているのが、このプロの演奏家による学校コンサート。ことしと来年は、中学校に出向いてのコンサートを行い、オープン以降は、文化会館に招待して音楽鑑賞教室として定着させます。
上野の森混声合唱団と東京パーカッション・シンフォネットの巡回が10月12日から始まります。
「好きになりたい 住み続ける街」
人形づくりが好きだから‥‥
音楽が好きだから‥‥
好きになりたい。これからも、住み続ける街だから‥‥‥さまざまな、思いを託した人形オーケストラづくり。
初演はもちろん、文化会館のオープンに。
現在、参加スタッフは60人。
街に、音楽の種をまくために、動き始めた市民たち。
人形オーケストラづくりに、一番初めに名のりを上げたのは、宮島にお住まいの田中せつ子さんでした。広報紙で募集の記事を見たからです。平成3年の元旦号に、こんな記事が載りました。
「私は、チェロが大好きなパン屋のおやじです。好きと言っても別に弾けるわけではなく、専ら演奏会を楽しんでいる一市民です。私の夢は、一度ステージに立ってチェロを演奏すること。皆さんの中にも、私と同じ夢をお持ちの方はきっと多いはず。思いを人形に託して、オーケストラをつくりませんか。初演はもちろん、文化会館のオープン記念演奏会」。
田中さんは、文化会館のできるのを心待ちにしている一人です。ご主人や大学生の息子さんも巻き込んで、人形オーケストラづくりに応募しました。
「新しい文化会館を十分に活用し、大勢の人々がその恩恵に浴することができるのは、とてもすばらしいことです」。
今でこそ、少しずつ富士市が好きになってきた田中さんですが、最初に移ってきたときには「ここは、ついの住みかではない」と思ったのだそうです。
金沢に生まれ、犀川の友禅流しや兼六園、そして城下町の伝統と文化の中で育った田中さんにとって、富士市は潤いのない、砂漠のような街に映ったようです。
しかし、今では金沢より長く住んでいる富士市。街も大きく変わってきました。人形づくりは、前向きに変わりつつある自分の気持ちに、ちょうどよい機会でもあったのだそうです。
現在、人形オーケストラづくりの参加スタッフは60人。人形づくりの好きな人。音楽の好きな人。田中さんのように 「これからも住み続ける街を好きになるために」と、思いはさまざまです。
そんな皆さんが、ことし3月に開いた「人形つくり方教室」に集い、お互いに情報交換をしました。今は、それぞれの人が好きな楽器を制作中ですが、まだ肝心の指揮者と楽員数人が決まっていません。どなたか挑戦してみませんか。
田中さんのお宅からは、バイオリン、フルート、コントラバスを演奏している人形が届きました。素材は粘土で、黒い上着を着ています。文化会館の一角で、70人編成の人形オーケストラが演奏を始めるのも、そんなに遠い話ではありません。
こんな人形ができ上がります
人形オーケストラづくりは、新しい文化会館のオープンを夢見ながら、そこで催されるコンサートや演劇などに思いをはせている市民のみなさんの熱意を、人形に託して完成後の文化会館の一角に展示しようというものです。
人形の大きさと服装だけは統一して、楽器や性別はあなた任せ。決して、仕上がりの優劣を競うものではありません。
人形によるオーケストラ編成は70人。じっくり仕上げている人も、何度でもチャレンジしている人も、目指すは、文化会館オープンの初演です。
- 図表あり -
( 図表説明 ) 素材は粘土、紙、木など
( 図表説明 ) 大きさは座った団員・18センチメートル 立った団員・23センチメートル
( 図表説明 ) 服装は上着・黒 ネクタイ・黒 シャツ・白 靴・黒
( 図表説明 ) 楽器は濃い赤茶色
「おもしろいからやるんだ」
文化会館の完成は、3年間温めてきた、市民ミュージカル上演の弾みのとき。
企画し、組織をつ<り、脚本を依頼する。
リハーサルを繰り返し、ポスターづくりにと、これからの仕事が山積する中で、ただ“おもしろいからやるんだ”と。
人を楽しませることの大好き人間が、地域文化の仕掛け人となって、ただいま活動中。
文化会館のイベントが、プロの芸術や芸能鑑賞だけでは寂しいと、市民がつくる市民のためのミュージカル上演の準備が進んでいます。
発起人は、市民劇場の井上実さん、富士演劇研究会の鳥居章さん、富士子供劇場の松野泰子さんら三人。3年間も、ミュージカル上演の夢を温めていました。 文化活動は、まず自分が楽しむことが第一だと考えています。市民ミュージカル制作準備会をつくり「一緒にやりませんか」と賛同者を募ったところ、音楽関係者や市民劇場の仲間たちが集まり、200人にふえました。
上演は、文化会館のオープン1周年目の子定で、題材は、富士市から発信できるものをと考えました。かぐや姫の物語やかりがね堤、そして曽我兄弟の中から、ディアナ号の物語を選びました。
ロマンとスケールの大きさに加え、何よりも舞台化できるとの劇作家のお墨つきが、大きな自信になりました。脚本も、舞台も、音楽も、どこへ出しても恥ずかしくないものをと考えていますから、脚本は山田太一さん、舞台は東京の演劇団体「地人会」の木村光一さんにお願いしようと、現在交渉中です。音楽は、既に林哲司さんに決まりました。
準備会の当面の問題は、ティアナ号の歴史をもっと幅広い市民に知ってもらうための講演会の開催。
駿河郷土史研究家の鈴木富男さんと奈木盛雄さんに、ディアナ号の歴史的背景と富土市のかかわりについて講演をお願いいしました。チラシの配布も終わって、後はどれだけの人が関心を持って集まってくれるかを待つだけ。
9月29日の当日は、ディアナ号のいかりの紙芝居を見てもらい、ミュージカルの上演計画を話す予定です。また、地元宮島地区の皆さんや、高校の演劇部にも呼びかけて賛同者をもっとふやしたいと思っています。
これからは、企画し、組織をつくり、脚本を募集し、あるいは専門家に依頼し、リハーサルを繰り返し、ポスターづくりにと仕事が山積。しかし、「おもしろいからやるんだ」と。
そして、演劇や音楽を通して「人間的にも成長したい」と考えるメンバーの皆さん。地域文化の仕掛け人なのです。
ディアナ号の話知っていますか
1854年11月のこと、ロシアのプチャーチン提督は、軍艦ディアナ号で下田にやって来ました。日露和親条約締結のためです。ところが安政の大地震が起こり、船は大破してしまいました。修繕のため戸田港へ向かいましたが、かじの壊れてしまった船は、強い西風を受け駿河湾を漂流します。
2日後、宮島沖へやっといかりをおろすことができましたが、そのとき船は1メートルの浸水状態でした。このままでは、500人の乗組員の命が危険です。強風と大波の中、数人の乗組員が本船からの綱を引いてポートに乗り込みました。それを見ていた宮島の人々は、決死の覚悟で海に飛び込み、ボートを陸まで引き上げました。命がけの仕事でした。やがて船と陸に太い綱が渡され、ディアナ号の乗組員たちは綱を伝わって救助されました。
宮島の人々は、急いで小屋をつくり、米や魚を運びました。
またある人は、自分の着物を脱いで、震えている水兵に与えました。これらの事柄は、同行したマホフ司祭長の手記に詳しく書かれています。結局ディアナ号は沈没してしまいましたが、いかりは引き揚げられ、三四軒屋の緑道公園に置いてあります。
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