はじめまして僕、ブラック・クローソンです
はじめまして、僕はブラック・クローソンと申します。実は、僕は製紙機械のマスコット人形でして、その製紙機械のメーカーがブラック・クローソンなんです。
海を渡って富士へやって来たのが明治21年(1888年)。それからずっと紙を通して富士の街と人を見てきました。
ことし、富士市では近代製紙100年を記念して、さまざまなイベントが行われています。
そこで僕もこの100年を皆さんと一緒に振り返ってみたいと思います。どうぞおつき合いください。
かぐや姫だって紙がなければ
聞くところによると、僕が来日した時より、1,200年も以前から日本では紙があったそうです。これは、中国で発明された紙がいち早く日本に伝わり、器用な日本人はみずからの手で、国産紙(和紙)をつくり広く普及させたからです。
紙の普及は文化を向上させました。『竹取物語』が今日みんなに愛されるのも、まさに紙のおかげです。
ヒット商品駿河半紙
紙は昔から貴重品として贈り物に使われていたようです。江戸時代に入ってからは、全国各地で生産が盛んとなり、華やかな江戸の庶民文化を支えてきました。
中でも三椏(みつまた)を原料とした「駿河半紙」は全国的に有名で、明治初期には、原田・吉永・須津地区などで盛んに三椏が栽培され、富士の製紙業発展の基礎となりました。
富士の紙発祥の地『今泉の蒲(がま)』
僕が日本に来たころ、今泉の田宿川の水源地周辺(通称ガマ)に手すき和紙工場がつくられました。
工場では職工を雇い生産ラインの機械化を図り、生産性の向上に力を入れました。また、田宿川沿いに手すき和紙伝習所が設けられ、技術者の養成が行われました。
その後、製紙に欠かすことのできない水が豊富にわき出るこの今泉ガマを中心に、多くの手すき和紙工場が建てられ、また三椏の生産も順調に増加し、価格の安定した和紙が生産されました。
このように今泉のガマは、名実ともに富士市の製紙業発祥の地と言うことができます。
ペーパーロード(紙の道)って知ってる?
さて、米国からやってきた僕と製紙機械は、入山瀬村に新しく建てられた、富士では最初の洋紙専門の製紙工場(富士製紙会社)に運ばれました。
明治23年(1890) 地元の人々の協力によって操業を開始したこの工場は、入山瀬村の発展に尽くしただけでなく、東海道鉄道が敷かれると、町と資本金を出し合い、吉原駅から大宮(富士宮)まで馬車鉄道を通しました。
また明治42年(1909)加島村に富士駅ができると、ここから鷹岡村長沢まで馬車軌道を敷いて連結しました。これによって、資材や人の運搬が楽になり、街は活気づき、やがて現在の富士市のほぼ全域に製紙会社が建設され、「紙の街富士」の全体像ができ上がりました。
そこで僕はこの2本の道を『ペ−パーロード(紙の道)』と呼んでいるのです。
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( 写真説明 ) 現在の長沢付近。左が吉原方面、右が富士方面へ
紙の街に紙のない時代があった
大正時代に入ると、第一次世界大戦や大正9年(1920)の世界大恐慌、関東大震災など、大きな社会不安に襲われました。でも「紙の街」から紙が消えてなくなることはありませんでした。
しかし、それが現実に起こったのです。第二次世界大戦の勃発です。当時の様子を名倉英雄さん(石坂・当時大昭和製紙勤務)が語ってくれました。
製紙工場なのに戦時中は戦闘機の部品をつくっていたんだ
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昭和15年から昭和16年になると、軍部による統制経済のため、紙の原料や薬品、燃料、機械の部品などが不足し、また従業員も召集や徴用で減ってしまい、紙の生産は軍用品に限られてしまった。
それだけならまだしも、戦闘機の部品や木製飛行機の素材をつくる軍需工場になってしまった。つくられた飛行機は特攻機として使われたそうだ。米軍機の機銃掃射(きじゅうそうしゃ)も受けた。平和産業の製紙工場で兵器をつくるなんて、ばかげた時代だったね。
環境への思いやりってすごく大切なこと
戦後の混乱から立ち直り、順調に発展してきた製紙業界に新たな問題が起こりました。地下水の塩水化と田子の浦港のヘドロに代表される公害問題です。
その後、各企業で排水対策や大気汚染防止の設備を設け、今では日本で最も厳しい公害基準をクリア。僕たちは環境への思いやりを学びました。
紙の未来は地球の未来
水と太陽と空気と土、そこから生まれる紙。紙は自然と共に暮らす習性を身につけている日本人にぴったりの素材だと僕は思います。
今まで1,000年以上もつき合ってきた人と紙、これからどんな関係を築き、どんな街をつくっていったらいいのでしょう。
美しい環境を次代に
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(社)静岡県紙業協会 専務理事 松坂博文さん
富士市の近代製紙は、富士山の美しい水と恵まれた自然環境、そして、多くの人々によって支えられてきたと思います。
100年経った今、製紙業界はこれから何をすべきなのか真剣に考えなければなりません。特に大切なのは、この地域の未来を受け継ぐ子供たちに、美しい自然や地球環境を残していかなければならないということです。
そのために、今までの経験を踏まえ、今何ができるのか検討し具体的な活動に結びつけていきます。それが、地域に愛され地域とともに伸びていく産業だと確信するからです。
資源の再利用を強力に進めていきます
森林資源の保護は、具体的には再生紙を利用することで大幅に改善されます。富士市のトイレットペーパー生産量は全国の約37%。すべて再生紙です。トイレットペーパーは、使用後水に流してしまうので再生できません。その意味でも、皆さんが再生紙ものを使ってくれることが自然保護に直結します。
また製紙かす(ペーパースラッジ)の再生処理は環境を守るための重要な課題です。
ペーパースラッジの再利用は技術革新が進み、実用化の段階に入っています。例えば歩道用ブロックやビルの外壁塗料の原料、植成材料、内壁材などその用途は拡大しています。
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( 写真説明 ) ペーパースラッジを原料とした歩道(富士体育館前)
企業と市民とが共有できる情報拠点を
市内の製紙工場では、多くの種類の紙が生産され全国に流通していますが、市民と紙との具体的なかかわりはどうも希薄だなと感じます。例えば、富士市を紹介する場合「富士山のある街」と言いますが、もし、富士山がなかったら私たちは、何をもって富士市とするのでしょう。それは『紙』しかありません。
「カミニケーションFUJI会議」は、紙を通して富士の街や産業、文化、教育、人、環境などについて、市民サイドで話し合い、研究・提言などの活動を行っています。
近代製紙百年の節目の今、今後百年を考えた広い視野で、紙と市民とのいい関係を探っていくことが必要です。それには紙の持つ広大な可能性を市民がわかりやすく理解できる拠点が必要ですね。そこには、企業と市民が共有できる先端技術の情報やソフトがあり、市民が紙の街に住む誇りを増幅させるような施設であって欲しい。また外へ向けての発信や受信のできる機能も大切だと思います。
カミニケーションFUJI会議 問い合わせ 電話62-1020(高木方)
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( 写真説明 ) 8月1日、紙の未来をテーマに行われた12時間朝まで討論会
紙の国100祭
富士市の近代製紙誕生100年を記念して、明日の製紙産業と自然環境の調和を目指す「紙の国100祭」のイベントが市内各地で行われています。7月には「紙フォーラム」、「紙リンピック」などが行われ、また、10月には「紙トピア100」などを予定しています。あなたも参加しませんか。
まだまだイベント盛りだくさん
紙トピア100 (10月3日・4日、中央公園)
・環境平和コンサート
・紙と遊ぶコーナー
・手すき和紙の実演
・紙のウォークラリーほか
紙の道100
・紙の歴史出版事業
問い合わせ 紙と未来21創生実行委員会 電話35-5061
紙の国100祭 イベント
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( 写真説明 ) 7月18日「紙フォーラム100」
( 写真説明 ) 7月19日 紙飛行機大会(富士川緑地)
( 写真説明 ) 7月19日 紙リンピック(総合運動公園陸上競技場)
( 写真説明 )
僕を探して!
駆け足で紙の100年を見てきました。
気がつけば僕も100歳。これからも僕は大好きなこの街に住み続けます。
皆さん!僕を見つけたら、あなたと紙と街のいい関係を、ちょっと考えてみてくださいね。