【広報ふじ平成3年】戦争のこと 私の体験 話しましょうか
戦争のこと、知っていますか。戦争を知らない年代がふえて、長く悲惨な戦争も忘れ去られようとしています。富士市は、「核兵器廃絶平和都市宣言」を行い、平和を願い核兵器の廃絶を強く訴えています。戦争を生き抜いてこられた皆さんにお話を伺いました。
現代史年表
1931年(昭和6年) 満州事変が起こる
1936年(昭和11年) 2.26事件。
1937年(昭和12年) 日中戦争が始まる。
1939年(昭和14年) 米穀配給統制法。
1941年(昭和16年) 太平洋戦争に突入。
1944年(昭和19年) 学童の集団疎開が始まる。
1945年(昭和20年) 沖縄戦。広島・長崎被爆。終戦。
衣料切符や食べ物のこと
渡辺房江さん・69歳(大渕)
- 写真あり -
私が、私立「大芝裁縫女学校」に勤めていた昭和17年1月20日、衣料を買うのが点数制になりました。当時の日記を読むと、この翌日校長先生が「一寸(38ミリ)の布も一尺(38センチ)の糸もむだにしないように」と訓示したことや、それから4日から5日後、同僚の先生が買いだめして、一人何枚と割り当てられた医療切符を160点も使ったのに驚いたことなどが書いてあります。
食べ物についての、苦労はよくわかりません。まだ、結婚前の娘でしたから。でも、ほうとう、おしるに、さつまいもはよく食べました。母や兄嫁が工夫して、用意してくれました。大変だったろうと思います。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 衣料切符制(昭和17年〜25年)戦争の拡大とともに強化された。点数は42点。
戦友の死
小中孝太郎さん・68歳(平垣本町)
- 写真あり -
私は、16歳で「少年飛行兵」に志願しました。実戦機に乗り、海の中へ潜水艦の模型を沈め、攻撃の訓練をしました。昭和17年5月、北朝鮮に赴任。とても寒く、屋根からは太いつららが下がり、部屋には「オンドル」があったのを覚えています。
500人ほどの連隊で、給油当番は午前1時起床。普通は午前四時に起きます。4時間くらいの演習があり、朝食はそれから。
昭和19年暮れ、特攻隊の編成命令がありました。私は三男だったし、若く、国を守ろうという一心で、特攻隊員になりました。何も恐ろしいとは思わずに。
飛び立つ日には、“みずさかずき”を交わします。レイテ島やネグロス島で死んでいった戦友たち。この名簿だけでも、370人です。
7月19日
新しい命が誕生した。
満ち足りて眠り
小さな握りこぶしに
これからどんな大きな幸せを
つかもうとしているんだろう。
いとしき命 守りたい。
この平和
いつまでも。
- 写真あり -
( 写真説明 ) モデルは田原浩一郎さん・美香さんの次男(前田)
二人の子供を抱えて
松本よし江さん・74歳(今泉6)
- 写真あり -
今までだれにも戦争のことを話さずに来ました。気持ちの整理がついたのは、昨年ころからでしょうか。
夫が戦死したのは昭和19年。長男が1歳になったときでした。最期の手紙は、サイパン島から。「子供はどうか、元気でいるか。南十字星が美しく、子供に見せたい」と。
3歳と1歳の子供を抱え、知人を頼って神奈川県の松田に疎開しました。畑を借りてさつまいもをつくり、和裁を教えたりしながら生計を立てました。当時、一家に一人の割り当てで勤労奉仕があり、そのたびに子供を預け、飛行機の油を取る松の根を掘ったり、馬のえさを取りに行きました。病気もしなかったのは、気が張っていたからでしょう。勧められて再婚し、子供らも無事成長しました。今では静かな生活を送っています。
☆戦争の話語らず来し吾は拙き歌詠み残し置くなり
☆背負籠(しょいかご)負ひ山に薪とり迷ふまま夜ともなりて心細かりき
☆晴れし日に白く輝く富士山(やま)の麓(ふもと)に住める幸(しあわ)せを知る よし江
弟からの手紙
土肥藤作さん・82歳(水戸島1)
- 写真あり -
弟は、19歳で志願して海軍の水兵になりました。日中戦争で、23歳のとき上海で戦死しました。
私たち兄弟は、早くに父親を亡くしています。弟にとって私は父親がわり。また軍隊での生活は、やっぱり寂しく人恋しいものがあったのでしょう。2年間に、60通もの手紙が届きました。
手紙はすべて「軍事郵便」のスタンプが押され、軍の検閲を受けたものでした。昭和12年8月25日付の手紙に、こんなことが書いてあります。
−敵弾雨あられの中で戦っております。我が隊砲弾は百発百中にて敵陣を破壊しました。17日は敵多く、隊員も戦死傷者が多く出ました−
この手紙の1か月後、戦死の通知を受け取りました。
空爆のこと
☆1942年4月18日(昭和17年) 最初の警戒・空襲警報発令。
☆1944年8月4日(昭和19年) 本格的な空襲が始まる。
☆1944年11月5日 空襲警報発令。1人負傷(投弾)
☆1945年4月9日(昭和20年) 鷹岡町に被害(投弾)
☆1945年7月25日 小型機4機来襲。元吉原村と田子浦飛行場被害。(投弾)
☆1945年7月30日 東芝富士工場と日産吉原工場に被害。(投弾)
富士市消防史より
=防空壕(ぼうくうごう)=
空襲警報があると逃げ込んだのが、防空壕。地面や山の斜面を掘ってつくった穴蔵です。
平和のこと 考えるためのお勧め品
あれこれコーナー
図書・学童の手紙・戦争展・16ミリ映画フィルム・ビデオテープ
小・中・高校生向き
おこりじぞう……………山口勇子(金の星社)
笑った顔をして町の横町に立っていたおじぞうさんは、8月6日、原子爆弾をうけ爆風で吹きとばされた。水を求め、逃げのびてきた一人の女の子の目には、そのおじぞうさんがお母さんに見えた。
ガラスのうさぎ…………高木敏子(金の星社)
日本の敗色の色濃い太平洋戦争末期、主人公・江井敏子、神奈川県二宮に疎開していた。兄を特攻隊で、母と妹を東京大空襲で亡くし、満州から戻った父さえも艦載機の銃弾にうばわれてしまった。
おとなになれなかった弟たちに……‥米倉斉加年(偕成社)
だれもがひもじかった昭和20年、夏。著者は4年生。悪いと知りながら弟の配給のミルクを何回も盗み飲みしてしまう。母は自分が食べないので、お乳がでないというのに。やがて弟は死んでしまう。
ひろしまのピカ…………丸木 俊(小峰書店)
ピカッという恐ろしい光が、昭和20年8月6日、午前8時15分、広島の空を貫いた。それは、人類初めての原子爆弾の光。数えきれないほどの人々が死に、傷ついた。7歳のみいちゃんのお話。
アンネの日記……………アンネ・フランク(文芸春秋)
第二次世界大戦中、ナチスによるユダヤ人迫害は、残虐をきわめた。この本は、そんな迫害を逃れ、オランダのある家の屋根裏に隠れ住んだアンネ一家の、2年間の生活をつづった日記である。
ターニャの日記…………早乙女勝元(草土文化)
第二次世界大戦の総死者約5,000万人の5分の2が、ソビエトにおける生命の犠牲という。ドイツ軍の包囲下にあったレニングラードでは、肉親を失わなかった家は少ない。ターニャもその一人。
一般向き
日本のいちばん長い日…‥大宅壮一(角川書店)
昭和20年8月15日の正午、ラジオは日本帝国が連合国に降伏したことを国民に知らせた。この本は、その前日正午の降伏決定の御前会議から天皇放送までの長い一日のドキュメント。
ヒロシマ・ノート………大江健三郎(岩波書店)
23歳の若さで芥川賞を受賞した著者が、広島を再々訪れ、そこで知り得た被爆者たちの生き方と思想をつづったエッセイ。豊かな時代に、暗いイメージの原爆の本は減ってきている中で貴重な本。
ボクラ少国民……………山中 恒(辺境社)
児童文学者である著者が、戦争中に受けた教育の意味を探ったもので、昭和42年から8年がかりで完成させたシリーズ本。戦争と教育の問題を考えるうえで欠かせない本。
◇中央図書館 今泉 電話52-2825
◇東図書館 比奈 電話38-1550
◇西国書館 本市場 電話64-2110
◇富士文庫 久沢 電話72-1612
- 写真あり -
( 写真説明 ) 中央図書館の平和を考える本が並んだ戦争のはなしコーナー
品川からやって来た学童疎開の子供たち 元吉原にあった「京陽国民学校妙法寺学寮」
戦争は、子供たちの生活や教育にも大きな影響がありました。昭和19年、東京の品川区から空襲を避けて、元吉原の妙法寺へ学童疎開がありました。これは、学童(12歳)が家族へあてた手紙です。
家族にあてた小熊幸次郎さんの手紙
☆家族への手紙 昭和19年8月26日
お父ちゃんやお母ちゃん、おばあさんや兄さん姉さん、お元気ですか。僕も無事に妙法寺に着きました。ご安心ください。
朝起きるのは5時に起きます。それから、朝の点呼をとります。それから、次々に顔を洗いに行きます。毘沙門様が祭ってあるお寺でご飯を食べます。午前6時ころご飯を食べます。それから、掃除をします。昼は12時ころです。お3時のおやつは、たいてい「ナシ」です。
こないだは、うどん粉の中にタマネギやジャガイモ、とうなすを入れたパンをつくってくれました。夜、ご飯は6時ころ食べます。寝る前に勉強をします。寝るのは8時ころ寝ます。ではまた。
☆おじへのはがき 昭和19年9月13日
おじさんおばさん、お元気ですか。22日夕方、無事に入園しました。お寺の前には、富士山が手に取るほど大きく見えます。後には、田子の浦が岸辺を洗っています。
僕たち、朝は5時に起きます。朝のご飯は6時半ころです。まず、朝起きると掃除です。掃除当番がたたんである布団を先生の部屋へ積み重ねます。
学校の始まりは7時20分です。学校が終ると、すぐ食事の用意です。用意が終ると、皆整列して食堂に行きます。ご飯が終ると、静かに自分で洗いに行きます。夜のご飯は6時半ころです。寝るのが午後8時ころ寝ます。
お体を大切に。さようなら。
*「品川の学童疎開資料集」をもとに掲載しました。46年が過ぎて、小熊さんは59歳。品川で本屋さんを営んでいます。「親が恋しくて泣く子も。村の人には随分親切にしてもらいました。よろしく」と話してくれました。
16ミリ映画フィルム
象のいない動物園
◆小・中学生向き
◆親子(81分)
このお話は、昭和18年ころ本当にあった「かわいそうなゾウ」というエピソードをもとにしています。平和の尊さと命の大切さを教えてくれます。
夏服の少女たち
◆小・中学生向き
◆親子(30分)
原爆死した少女が残したものは、女学校の夏服だけだった…この映画は、原爆の悲劇を感動的なエピソードを交えて描いています。
ビルマの竪琴
◆小・中学生向き
◆一般(48分)
太平洋戦争末期、ビルマ戦線を敗走する日本軍の中に、合唱が得意な部隊があった…平和と人間愛を描く日本文学の傑作。原作は、竹山道雄。
申し込み 社会教育課 内線 2718
第4回 戦争展
8月12日(月曜日)〜17日(土曜日)
富士市役所2階・市民ギャラリー
1.満州事変から60年
ことしは、15年戦争の口火となった満州事変から60年、その記録の数々。
2.富士市民の暮らしと戦争
千人針、配給切符、モンペなどに加え今回は製紙と戦争のコーナーも。
3.街が燃え人が燃える静岡大空襲
昭和20年6月19日、静岡市は130機の米爆撃機の空襲をうけ2,000人の死者をだし、市街の大半が焼けた。
4.戦前の学校では…子供たちは…
日本とアジアの教育を通して戦争を見つめる。教育書や出版物ほか。
5.戦争は最大の環境破壊
いまも異常児出産で悩むベトナム戦争、そして湾岸戦争、その環境破壊は。
6.非核の富士、非核の日本
昭和60年11月19日「核兵器廃絶平和都市宣言」の富士市。
=昨年の感想文から=
・写真とかビデオを見てよく戦争のことがわかりました。(11歳・女)
・こわかった。せんそうなんかぜったいにしてほしくない。(10歳・男)
主催 核兵器廃絶平和富士市民の会
平和のための戦争展実行委員会
後援 富士市・富士市教育委員会
★16ミリ映画フイルム
1.核戦争後の地球
第1部「地球炎上」(30分)
第2部「地球凍結」(30分)
2.おこりじぞう (27分)
3.おかあさんの木 (20分)
4.100番目のサル (20分)
5.核戦争 (15分)
★ビデオテープ
1.核戦争後の地球
第1部「地球炎上」(30分)
第2部「地球凍結」(30分)
2.ほたるの墓 (90分)
3.チェルノブイリ.クライシス(57分)
●申し込み●
広報広聴課 内線2821
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広報広聴課 (市庁舎8階北側)
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