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【広報ふじ平成2年】平和(PEACE)

平和な時代が当たり前と思ってきた でもそうではない時代があった……

 45年前の8月、広島・長崎には原子爆弾が落とされ、日本は終戦を迎えました。戦場での悲惨な戦いや、銃後での苦しい生活など、年とともに戦争は忘れ去られつつありますが、田子浦地区に戦争のむごさをしるす碑が新たにできました。
 この碑は「中国人殉難者慰霊碑」といい、戦争末期、中国人を強制連行した暗い歴史を物語っています。今回は、この碑を紹介しながら、みんなで平和について考えてみたいと思います。

戦争の悲劇を伝える

 田子の浦海岸の松林に囲まれた中丸共同墓地の一角に「中華民國人興亜(こうあ)建設故歿者之碑(こぼつしゃのひ)」と刻まれた白く大きな碑があります。また、その脇には黒の御影(みかげ)石に「中国人殉難(じゅんなん)者慰霊碑」と刻まれた副碑もあります。この二つの碑には次のような経過があります。
 昭和19年、現在の富士南中の北側から自由ヶ丘団地までの間に陸軍が富士飛行場の建設を始めました。当時は兵役のため働き手が少なく、中国から強制連行されてきた中国人504人が「興亜建設隊」に編入され、作業に従事させられたのです。
 戦争末期のことですから満足な食料はなく、過酷な労働と劣悪な生活環境の中で、中国人は働かされました。そして、故国にはせる思いもむなしく52人が亡くなり、亡きがらは中丸の共同墓地に埋葬されました。
 昭和23年、工事を請け負った熊谷組が中丸共同墓地に「中華民國人興亜建設隊故歿者之碑」を建立。29年には全国的な遺骨送還運動の中で、盛大な慰霊祭が行われ、遺骨は同年11月に懐かしの祖国へ送還されました。
 その後、この碑は地域の皆さんに手厚く供養されてきました。
 そして、7月14日、新たにこれまでの経緯を記した「中国人殉難者慰霊碑」(副碑)を建立し、中国大使館から一等書記官を迎えて、殉難者の冥福を祈りました。
- 図表あり -

- 写真あり -
( 写真説明 ) 「中国人殉難者慰霊碑」の除幕式(7月14日)


平和を願うことが亡<なった人への献花

佐野みよ子さん(三四軒屋・61歳)
- 写真あり -
◇やってきた500人の中国人
 私が女学生だった昭和19年の秋ごろだったと思います。軍部の命令によって、富士川左岸に飛行場が建設されることになり、建設労務者として500人余の中国人が、三四軒屋へやってきました。
 中国人の宿舎は、木造バラックで、竹のさくの中にありました。その位置は、当時の上五貫島あたりから今のディアナ号のいかりのある公園を通って、三四軒屋松原までつながっていた富士川堤防内土手の西外れにありました。

◇隔離された生活
 その宿舎での生活はどの様だったのか外部の者にはわかりませんでしたが、朝晩、むちを持った監督者に監視されながら、隊列を組み、黙々と飛行場建設に通う姿が今もはっきりと思い出されます。
 私は怖かったので、物陰からのぞき見たものでした。中国人は紺のキルティングのような服を着ていました。
 また、宿舎から少し離れた西側には、病人を隔離した小屋がありました。木切れを張りつけた小さな窓から時折、青ざめた顔で外を眺めている中国人の姿を2度・3度見かけたこともありました。

◇足にいっぱいののみ
 戦後、このバラックの宿舎が取り払われ、後は畑地となりました。その畑を通ったとき、モンペをはいた足が、いやにかゆいのです。
 家に帰り、モンペを脱いで驚きました。モンペの縫い目から足に、それは足の色が変わるほど、ビッシリ、のみが吸いついていたのです。「ワァッ」と声にならない声を出し、外に飛び出て、のみを払い落としました。飢えだけでなくこんなところにも死につながる原因があったのでしょう。

◇中国人の胸中を思うと…
 松原のあの宿舎で、ましてや異国の土地で、悲しい人生の終わりを迎えた人々が52人もいたとは、改めて戦争の悲しさ、むなしさを感じます。
 四十数年前、隊列を組み、黙々と飛行場に通っていた中国人の胸中を思うとき、私の胸は重く、締めつけられる思いがします。二度とこのような不幸が起きてはなりません。
 日中のみならず、この世の平和を願うことが、黙々と歩き亡くなった人々へのせめてもの献花であると、私は信じています。
(この文は、富士南地区の郷土誌「ききょうの里」に掲載された佐野みよ子さんの文をもとに、今回取材し加筆したものです。)
- 写真あり -
( 写真説明 ) 昭和30年ごろの飛行場跡地(富士南地区の郷土誌「ききょうの里」より)
( 写真説明 ) 宿舎のあった場所、今は畑に


碑の掃除を続ける田子浦中生徒

 中丸区に住む田子浦中の生徒は、年4回、奉仕活動として慰霊碑を掃除しています。
 また、和田恒雄校長先生は、富士中2年生のとき勤労奉仕で週1回くらい、中国人と一緒に作業した経験をもっています。
 3年生の長野英史君と曽根輝子さんは校長先生の体験を闇き「今生まれてきてよかった。現在の生活と比べると信じられない。昔のようにならないよう、碑を大切にして、話を伝えていきたい」と語っていました。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 左から長野君、和田校長先生、曽根さん


平和を考えるビデオ・映画を貸し出します
◇ビデオ
 ○火垂(ほたる)の墓(アニメ)
 ○核戦争後の地球 第1部 地上炎上 第2部 地球凍結
 ○チェルノブイリ・クライシス
◇16ミリ映画
 ○おこりじぞう(人形アニメ)
 ○お母さんの木(アニメ)
 ○100ばんめのサル(アニメ)
 ○核戦争後の地球 第1部 地上炎上 第2部 地球凍結
 ○核戦争(アニメ)

*詳しくは広報広聴課 電話51-0123 内線2822へ。
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