武田信玄と上杉謙信のライバル同志のエピソードは、川中島の合戦など、数多く現在に伝えられていますが、その中に、謙信が宿敵である信玄に塩を送ったという有名な話があります。
永禄4年(1561)の川中島の合戦の後、ほぼ信濃を手中にした信玄は、次に矛先を駿河の国に向けました。駿河には、既に今川義元なく、その子の氏真(うじざね)が国主となっており駿河を攻めるには絶好の機会でした。しかし、両国の間には天文23年(1554)に結んだ、甲・相・駿の相互不可侵条約、善徳寺の三国同盟があります。さらに、信玄の長男義信の妻は今川氏真の妹にあたります。義信は信玄の駿河侵攻に真っ向から反対しました。この親子の対立は激しくなり、永禄8年(1565)、ついに義信は謀反の罪で捕らえられ、2年後には切腹、妻も駿河へ送り返されてしまいました。
この事件で、甲斐武田と駿河今川との友好関係は完全に消え去り氏真は信玄の裏切りにも等しい仕打ちに激怒し、直ちに報複措置をとりました。その一つが塩止めです。
これは一種の経済封鎖で、自国の領地に海を持たない甲斐の人々には致命的な打撃でした。
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( 写真説明 ) 甲斐に続く道、中道往還(厚原)