勘介が信玄に仕えた年は、信玄が父信虎を駿河へ追放した2年後に当たり、その頃、信玄は信州攻略作戦の最中で、一人でも多くの有能な武士が欲しかったのです。
勘介は、片方の目と足が不自由だったといいます。しかも43歳という壮年から信玄に仕えたにもかかわらず、彼の期待によくこたえ、その年の内に、早くも9つの城を攻め落したといいます。
山本勘介はその後も数々の合戦で手柄を立てましたが、彼の実績の第一は、なんといっても城造りです。彼は長い間の諸国遍歴で多くの城を見聞し城造りの技術を身につけていたのです。勘介の造った城は、現在も多く残っています。例を上げると、桜の名所として有名な伊那の高遠城、島崎藤村の詩「千曲川旅情」で知られる小諸城そして、川中島の合戦の舞台となった海津城などがそれです。
世に有名な川中島の合戦は、永禄4年(1561)9月10日に行なわれましたが、この戦いで勘介は、最も良策として進言した作戦が上杉謙信に見破られ、一時武田軍を苦戦に陥れた責任感から、自ら敵陣に突っこみ壮烈な最期をとげました。信玄に仕えて19年目、享年61歳と伝えられています。
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( 写真説明 ) 代信寺にある山本勘力と伝えられる木像