信玄を書いた古い書物は数も多く、今日、私たちが四百年も前の信玄の活躍を知ることができるのは、これらの書物によるところが大きいのですが、その一つに「甲陽軍鑑」があります。これは信玄、勝頼2代にわたる武田家の合戦や軍法、刑法などをしるした甲州流軍学書です。
ところで、この書物には、信玄以外にもさまざまな人物が登場しますが、中でも信玄の家来、山本勘介には多くの紙面が使われています。彼の名は、信玄を語るとき必ず登場するほどよく知られ、特に、この時代の富士郡にはゆかりの深い武将です。
彼の出生地は、富士郡山本村(富士宮市山本)だと伝えられています。この村は、富士郡上方の庄天間(富士市天間)に隣接しており、また彼の墓が富士市比奈の医王寺にもあることなどから考えると、勘介と富士市とは意外と深いかかわりがありそうです。
勘介は山本村の豪族、吉野貞幸の子として生まれ、12歳で三河牛久保の大林家の養子となりましたが、故あって20歳で大林家を去り、文武の研さんのため諸国を遍歴しました。彼の生年は、はっきりしませんが、のちに信玄に仕えたのが天文12年(1543)で、勘介43歳の時だと言われています。
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( 写真説明 ) 医王寺の山本勘介の墓