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【広報ふじ昭和62年】愛・夢・ロマンを求め ロシア軍艦ディアナ号探査会を設立

 安政元年(1854年)、富士川河口の三四軒屋沖に沈んだロシアの帆船軍艦ディアナ号(2,000トン)の探査会設立総会が、7月21日、富士市役所で開かれ、会長に渡辺富士市長が就任しました。
 探査会は、ディアナ号探査の提唱者、作家の大南勝彦氏や富士、下田、沼津、戸田の3市1村の関係者によって発足、62年度は事前調査に重点をおき、63年度から本格的な探査事業に着手する計画です。
 探査事業は、日ソ友好史に光をあて、官民一体となって進めようとするもので、ただいま探査会会員を募集しています。探査を通して、日ソ両国民の人間愛、夢、ロマン、そしてこれまで伝えられなかった「もう一つの開国」の歴史が明らかになることでしょう。

日ソ友好の歴史ときずな

大津波に遭遇

 幕府との条約交渉のため、下田に来航したロシアの軍艦フレガード・ディアナ号が大津波にあったのは、安政元年(1854年)11月4日、午前9時ごろのことでした。この津波は、遠州灘沖を震源地とするマグニチュード8.4と推定される、いわゆる「安政の大地震」によって起こったものでした。
 地震による被害は、富士郡を中心にして、庵原、駿東が多く、津波は伊豆海岸に大きな被害を与えました。
 下田の被害は、全戸数856戸のうち、全壊流失813戸、半壊25戸、死者は人別帳に載っている者だけで85人あったということです。
 一方、プチャーチン提督以下、500人の乗組員を乗せたディアナ号はどうなったでしょうか。
 ディアナ号に同乗していた司祭長のワシーリィ・マホフの書いた「フレガード・ディアナ号航海記」によると次のとおりです。
 「午前9時ごろ、突然艦全体が揺れ、いすが倒れ食器類が転がり始めた。日本でよく起こる地震であることが知らされた。
 水兵たちが各任務についたその直後『大変だ!海が……』という監視の叫びに、全員が甲板に出てみると、海水が異常な速さで海岸に向かって押し寄せてくる。日本の漁船が見る見るうちに流され、湾内の海水は、まるで釜の中で煮えたぎっているかのように渦を巻き、大きなうねりが音を立てて岸へ打ちよせ陸を襲った。
 目の前にあった下田の町は、一瞬のうちに消え失せ、海上は、壊れた建物や舟で埋まり、死体や板につかまって流される人々であふれた。
 2,000トンのディアナ号も、大津波の前には木の葉のようだった。
 前後左右に大きくゆれ、マストを折り、舵と竜骨(キール)を破損し、船底部の浸水も激しかった。……」と書かれています。


三四軒屋沖で沈没

 からくも沈没を免れたものの、ディアナ号は半身不随となってしまいました。
 そこで、プチャーチンは、船を修理したいと申し出ました。しかし、どこを修理港とするかが問題です。
 クリミア戦争でイギリス・フランスと交戦中のロシアとしては、英仏艦隊に発見されるような場所では困るからです。そして、ようやく決まったのが伊豆西岸の戸田港でした。
 11月26日、大砲をおろし、乗組員の一部を残して身軽になったディアナ号は、日本船の案内で戸田港へ向かって出港しました。
 しかし、途中で強風にあおられ駿河湾を2日間漂流して、宮島村の三四軒屋沖に坐礁(投錨したともいわれる)してしまいました。
 航行不能になったディアナ号の乗組員たちは、地元民の協力によって全員上陸し、荷物も運び出されました。その後、沈没寸前のディアナ号を漁船で戸田まで曳航(えいこう)しようという計画がまとまり、12月2日、約100隻の漁船が集まり、作業が始まりました。
 そして、3時間にわたって約5マイル(8.046キロメートル)ほど移動したところで、にわかに襲った驟雨(しゅうう)のため、ディアナ号は、とうとう沈没してしまいました。

地元民の人間愛を称賛

温かい手を差し伸べ

 ディアナ号沈没までの日本側の援助は、ロシア人を感動させました。とりわけ、地元宮島村の人々は、自分たちも地震で打ちのめされているというのに、ずぶぬれで上陸したディアナ号乗組員に、着物や食物を提供し、温かい手を差し伸べてやりました。
 マホフ司祭長は、航海記の中で「ある人は大急ぎで囲いの納屋と日除けをつくって、私たちが悪天候を避けられるようにしてくれたし、また別の人々は、ゴザや敷物毛布や着物などを持ってきました。
 米、みかん、魚、卵を持ってきた人もありました。何人かの日本人が目の前で上衣を脱いで、冷えきって震えている水兵たちに与えたのは、驚くべきことでした」と記してあります。
 また、プチャーチン提督も報告書の中で、「我々が上陸した付近の宮島村では、地震のために破損しなかった家は一軒も残っていないありさまだったが、彼らの我々への人間愛的心労のほどは、とうてい称賛し尽くしがたいものがあった」と日本人への親切に感謝の意を表しています。


造船技術を学ぶ

 プチャーチン一行は、帰国の手段を失ってしまったので、帰国用の帆船を幕府に願いでて、つくることになりました。
 建造地は戸田。沈没寸前のディアナ号から搬出した製図法の文献をたよりに、ロシア将兵と伊豆西海岸の船大工棟梁によって設計図ができ上がりました。
 完成した船は、3本マスト、排水量80トン、全長23メートル、60人乗りの我が国最初の洋式帆船でした。
 日本人の職人たちは、目をみはる思いで洋式帆船の建造法を学び、構造と技術を写しとりました。3か月足らずで完成した新造船は、地元への感謝を込めて「戸田号」と命名されました。
 戸田号の誕生は、日露両国民友好のきずなを残し、同時に造船日本を築く基礎となりました。

ディアナ号探査会会員を募集

◇目的
・探査会は、富士川河口沖で沈没したロシア軍艦ディアナ号の船体を探査し、これまで伝えられなかった「もう一つの開国の歴史」を明らかにすることを目的とします。

◇事業
・ディアナ号の船体確認
・探査結果及び諸資料の公開など

◇会費
・個人 年額一口 3,000円
・団体 年額一口 1万円

◇事務局及び問い合わせ
 富士市永田町1-100 市文化体育課 電話番号 51-0123 内線 2721

- 写真あり -
( 写真説明 ) ディアナ号の模型
( 写真説明 ) ディアナ号沈没の想像図 市立博物館
( 写真説明 ) ディアナ号探査会設立総会
( 写真説明 ) 引き揚げられたディアナ号のいかりの鎖と黒船浦賀入港類集図(複製) 市立博物館
( 写真説明 ) 昭和51年、ディアナ号のいかり引き揚げ作業
( 写真説明 ) 三四軒屋の緑道公園にあるディアナ号のいかりとプチャーチンの銅像
添付ファイル
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