【広報ふじ昭和62年】まちかどネットワーク だれもが安らぎに満ちた暮らしが営めるまち 吉原
吉原は東海道五十三次の宿場町として栄えてきました。
延宝8年(1680)、大津波により依田橋西方にあった中吉原宿が全滅しました。今の吉原本町通りに吉原宿ができたのは、翌天和(てんな)元年の暮れから2か年をかけて、所替えしたためです。当時の戸数は297軒でした。
吉原地区は昭和35年の吉原本町商店街の防災街区造成事業を初め、津田・青島・永田地区の区画整理事業により町並みが連なりました。官公庁、金融機関、事業所など都市中枢機能の集積が進み、活発な商業活動は地区発展の原動力となっています。
地区南部は工業地域で、田子の浦港開港以来、藤沢薬品、日本食品化工などが進出し、和田川西岸には日産自動車もあります。
近年は地価が上昇し、人口の他地区への流出が見られています。また、中心地としての交通問題、和田川の溢水による浸水被害の防止対策、商店街の再開発などが求められる地区でもあります。
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( 写真説明 ) 電線の地中化も検討されている吉原本町商店街
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( 図表説明 ) ◆人口 13,520人
( 図表説明 ) ◆世帯数 4,316世帯
( 図表説明 ) (昭和62年4月1日)
( 図表説明 ) ◆面積 4.2平方キロメートル
我がまちを語る
鈴木邦衛(くにえ)さん 吉原本町2(70歳)
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祭りが生む吉原の力
東海道の宿場として発達してきた吉原は、昔から比較的豊かなまちでした。豊かであったことが、変化を好まない風土を築き、鉄道の駅設置などではマイナスの作用をしたとも考えられますが、総体としては順調に発展をしてきました。
この発展のエネルギーは、いろいろあげられます。私なりに一番の力と思うのは祇園祭りです。
町をにぎわすのは、いつの時代も人の集まりで、祭りはコミュニティーの核です。祇園祭りのもたらす共同意識は、吉原への愛着となり、他地区には見られない住民の力を生み出しています。
吉原は最近ちょっと元気がないと言われます。しかし、長期的視野で新幹線新駅との交通体系を整え、本町通りと昭和通りの間の再開発を考えれば、明るい展望が開けるのではと考えています。
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