明治16年春、300年近い歳月を逆潮と戦い続けてきた吉原湊(みなと)付近の農民は幾たびもの防潮堤流出にめげず、湊口に石水門の築造を始めました。工事はオランダ式の水門工法を採用し、セメントを使用するなど最新の技術をもって、明治18年11月に完成しました。
石水門は、人々に親しまれ「六つ眼鏡」と愛称されましたが、昭和41年12月田子の浦港建設のため取り壊されました。
また、昭和18年には昭和放水路がつくられました。これは、かつて増田平四郎がスイホシ(堀割)をつくったのと同じ場所で、浮島沼の汚水を吐かせ、田畑2,000ヘクタールを水害から守るためにつくられました。
(文は、郷土史家鈴木富男氏の著書を参考にしています。)
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( 写真説明 ) 田子の浦港にある石水門の碑