【広報ふじ昭和61年】田子の浦港ストーリー
青い海を取り戻し、いこいの場へ
田子の浦港は富士市誕生の昭和41年、国際貿易港となりました。以来20年、工業都市富士市発展の土台となってきましたが、その歴史はヘドロ問題などで大きな波がありました。そして今、新しい取り組みも始まっています。
富士山を水面にいだく
田子の浦港は、古くは「吉原湊(みなと)」と呼ばれていました。雄大な富士山を水面に映し、昔から多くの人が歌や詩にうたったところです。
中でも万葉の歌人山部赤人が、「田子の浦ゆ…」と詠んだのは、あまりにも有名です。
鎌倉時代から東海道のかなめとして栄え、江戸時代には国内各地との交易でにぎわう要所でした。
工業港に変身
風光明媚な吉原湊が現在の田子の浦港として変身し始めたのは、昭和33年でした。港は沼川と潤井川の合流点を人工的に堀り込んでつくられていきました。
工事は大きな波が来るため、非常に難しく、完成には十余年の歳月と130億円を要しました。
昭和36年8月、田子の浦港は開港し、41年4月には、「国際貿易港」となりました。今では年間約7,000隻が出入りしています。
港に入る主な物は、セメント・石油・チップ・トウモロコシなど、積み出す物は、紙製品・砂利・肥料・製紙機械などです。
こうして、田子の浦港は、工業都市富士市の成長の土台となっていきました。
ヘドロでピンチに
しかし、工業の発展とともに、田子の浦港は大変なピンチを迎えました。
工場排水等からヘドロがたまり、港の機能低下を招いたのです。その上、ヘドロは硫化水素ガスを発生し、住民の健康と生活環境まで脅かすようになったのです。
そこで、昭和46年4月から船にヘドロをくみ上げて、富士川の河川敷に運び処理を始めました。
このヘドロの上にできたのが富士川緑地公園です。昭和55年には、公害物質は一掃され、港の環境は改善されました。
将来はいこいの場に
現在市は、田子の浦港が市の皆さんのいこいの場となるような計画を進めています。
本年4月には、山部赤人の歌碑がカーフェリー発着場近くに建てられました。
また、港の東側(元吉原側)には富士山を望める展望台などのある公園の整備が予定されています。
田子の浦港は将来、工業港から市民のいこいの場も備えた港にイメージチェンジすることでしょう。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 活気あふれる田子の浦港
( 写真説明 ) 港をピンチにしたヘドロ(昭和45年)
( 写真説明 ) カーフェリー乗り場にできた富士山歌碑
添付ファイル
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