浮島沼の開発
江戸時代には、浮島沼の新田開発が盛んになりました。
嘉永3年(1850年)大野新田の高橋勇吉は、大野・桧(ひのき)・田中の3新田を水害から守るため天文堀をつくりました。
天文堀は、悪水を沼川に排水するためのもので、費用はほとんど勇吉の自費でした。
慶応3年(1867年)比奈村の名主野村一郎は、海水から田畑を守るため吉原湊(みなと)に大変頑丈な防潮堤をつくりました。しかし、2年後の明治2年8月の高波により崩れ去ってしまいました。
原宿の増田平四郎は、現在の昭和放水路と同じ場所に排水路を計画しました。慶応元年(1865年)18回もの許可願いにより暮府から許可がおり、身延山から1万両の出資を受けて着手しました。明治2年完成しましたが、やはり8月の高波で破壊されてしまいました。
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( 写真説明 ) 吉原三中前の野村一郎の碑