中吉原宿が大津波で破壊(はかい)した翌年の延宝(えんぽう)9年(1681年)、青島村の川口市郎兵衛(いちろうべ)は幕府の厳しい検地に反抗しました。彼は村の名主で、自分の村とその周辺の村々のために抵抗しましたがはりつけとなりました。
しかし、幕府も予定通りの年貢の取り立てはできませんでした。
感謝した村人は、磔(はりつけ)八幡としてまつりました。
また、安永(あんえい)(1772〜80年)のころ、大渕の農民は年貢の厳しい取り立てに餓死(がし)寸前でした。
名主の新五郎は、農民を救うために江戸へ行って訴え、その罪で首を打たれました。今も帳塚(ちょうづか)に祭られています。
一方、天和2年(1682年)今泉村の農民中村五郎右衛門(なかむらごろうえもん)は、将軍綱吉(つなよし)から親孝行の模範だとして表彰されました。
これらの事件は江戸幕府の農民政策の表と裏を示したものといえます。
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( 写真説明 ) 青島の磔八幡