富士川は、江戸時代初めごろまで、加島(かじま)平野を東南に向かって幾筋(いくすじ)にも流れていました。たび重なる水害にくじけず、富士川の流れを変え雁堤(雁の群れの形の堤)を築いたのが、古郡(ふるごおり)重高(しげたか)・重政(しげまさ)・重年(しげとし)の三代です。
古郡重高は、慶長(けいちょう)17年(1612年)の洪水で新田を流され、富士川治水の必要を強く感じ、一番だし、二番だしを作りました。
重高の子、重政は、正保(しょうほう)2年(1645年)に800町歩の新田開発に成功しましたが、万治(まんじ)3年(1660年)の洪水(こうずい)で開拓地のほとんどが流されてしまいました。
重政の子、重年も父の意志を継いで築堤(ちくてい)に全力を尽(つ)くし、延宝(えんぽう)2年(1674年)に雁堤は完成しました。
雁堤の土の量は一人が一立方メートルの土を運ぶと延べ42万5千人かかります。
(文は、郷土史家鈴木富男氏の著書を参考にしています。)
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( 写真説明 ) 雁の群れの飛ぶ形