鎌倉時代の始めころから、元吉原地区の砂山の湊(みなと)寄りに見付(みつけ)が構えられていました。天文年間(1532年〜1554年)のころ見付は漂砂(ひょうさ)や高波のために湊口から東の今井・鈴川地区へ所替(ところが)えしました。
そして、慶長(けいちょう)6年(1601年)
徳川幕府(ばくふ)はここを東海道五十三次の一つの宿駅に指定し、元吉原宿と呼びました。
所替えした吉原宿も漂砂や津波の被害を受け、寛永(かんえい)16年(1639年)依田橋(よだばし)村の西方に移りました。これが中吉原宿です。
中吉原宿は、所替えしてから42年目の延宝(えんぽう)8年(1680年)、大津波によって全滅(ぜんめつ)し、また所替えしました。
天和(てんな)2年(1682年)、幕府から、2,500両という大金を借りて移ったところが新吉原宿です。
現在の吉原本町通りで、当時の家数は297軒でした。
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( 写真説明 ) 現在の吉原本町通り