曽我兄弟が長い苦労の末、父のあだを討った話は有名です。
それは1193年5月28日のことです。父祐泰(すけやす)が、工藤祐経(すけつね)の手下大見の小藤太(ことうた)と八幡の三郎の二人にやみ討ちになってから18年目のこの夜、曽我兄弟は首尾(しゅび)よく父のかたきを討ちました。
兄の十郎祐成(すけなり)は、仁田(にった)四郎忠常(ただつね)に討たれましたが、弟の五郎時致(ときむね)は捕えられてその翌日首を打たれました。伝説ではその場所が、鷹岡だといわれています。
鷹岡地区には、曽我寺、曽我八幡、玉渡(たまわたり)神社、首洗い(くびあらい)井戸など曽我兄弟に関係した史跡があります。曽我兄弟のお墓は、全国に12か所ほどありますが、お墓と木像のあるのは、曽我寺と小田原市の城前寺だけです。
(文は、郷土史家鈴木富男氏の著書を参考にしています。)
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( 写真説明 ) 閑静な曽我寺