富士山からの良質な地下水は、私たちの生活用水であるとともに岳南地域の紙・パルプ産業を支える貴重な資源です。しかし、この地下水も無尽蔵にあるわけではありません。
かつて、地下水の汲み上げ過剰は、塩水化現象という深刻な問題を引き起こしました。この限られた地下水を有効に利用することは、私たちに課せられた大きな責任です。
そこで、地場産業を支える地下水についてふれてみます。
「紙のまち」として
昭和58年の工業出荷額は1兆2,905億円。本市は浜松市に次いで、県内2番目の工業生産高を誇っています。
この主な産業は、紙・パルプ産業で、全出荷額の38.7パーセントを占め、事業所数も336工場と、全体の23パーセントを占めています。
このように、本市は古くから「紙のまち」として知られ、紙・パルプ産業を中心に発展してきました。
その背景として、富士山ろくの豊富な地下水に恵まれていたことがあげられます。
通産省が昭和40年、全国に先がけて実施した「地下水利用適正化調査」では、本地区の地下水流動量は1日127万5,000立方メートルで、その安全掲水量は1日89万立方メートルと報告されています。
しかし、昭和30年代から40年代にかけての我が国の高度経済成長期により、市内の紙・パルプ産業も生産規模の拡大、事業所数の増加に伴い地下水の過剰なくみ上げが行われてきました。このため、地下水位が下がり海水が逆流するという「塩水化現象」を引き起こし、昭和35年ごろから田子の浦港を中心に、この現象は、年々内陸部にまで侵入してきました。(次ページ図参照)
県が実施した昭和47年の立入調査では、市内の地下水採取量は1日に140万立方メートル。通産省が指定した安全揚水量を50万立方メートル以上も超過していたわけです。
地下水依存から工業用水へ
過去、地下水だけに頼ってきた本市の紙・パルプ産業にとって、地下水の塩水化現象というのは死活問題にもなりかねないものです。
このため、昭和42年に地下水採取量及び新設井戸の自主規制をする官民協調方式の「岳南地域地下水利用対策協議会」を発足させました。
その後、昭和46年に「静岡県地下水の採取の適正化に関する条例」が施行され、地下水採取量、新設井戸等は自主規制から法規制へ移行されることになりました。
また、工業用水を地下水から他の水源へ切り替えるため、昭和39年に芝川の中部電力発電所の放流水を取水する「県営富士川用水道」を開通。
さらに、昭和46年12月に日本軽金属発電所の放流水を取水した「県営東駿河湾工業用水道」を開通させました。このことによって、塩水化現象の拡大は一応歯どめをかけることができたわけです。
しかし、今まで拡大してきた塩水化現象の減少までには至らず、地場産業にとって依然として危険な状態が続きました。そこで、昭和50年2月に地下水の採取址を安全揚水量にまで削減する「第1次水源転換計画」を実施。これによって、57社、約26万立方メートルが工業用水に切り替えられました。
この「第1次水源転換計画」によって、昭和47年から48年ごろをピークに横ばい状態を続けていた塩水化現象は確実に低下し、汚染範囲も縮少しつつあります。(上図参照)
今後、水源転換の未実施事業所に対しても、昭和62年3月をめどに地下水採取量の転換措置が実施されるため、地下水障害は一層良好な状況へ向かうものと予想されます。
私たちの飲料水をすべて賄い、工業生産の基盤となっている地下水は共有の財産と言えます。塩水化現象という苦い経験を踏まえ、この限られた資源を守り、有効利用することが私たちの使命と言えるでしょう。
- 図表あり -
( 図表説明 ) 市内における塩水化現象