紡錘車は、蚕(かいこ)のまゆなどから糸をつむぐ時などに使われる道具です。養蚕(ようさん)は古くから行われていた様で、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には3世紀に桑を植え、蚕を養い絹布を織っていたことが示されています。また『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』には、仁徳大皇の時代(5世紀)各地に派遣されていた秦(はたの)氏が柔かく、温かで、肌ざわりの良い絹織物を天皇に送ったという事が示されています。
秦氏は帰化人で、養蚕や織物の技術を持って朝廷に仕えていました。この秦氏出身の秦(はたの)追河勝(かわかつ)は、644年、東国(あずまのくに)の不盡河(ふじかわ)の辺(ほとり)に住む大生部多(おおふでのお)が緑色をした蚕に似た虫を常世(とこよ)の神として祀れば幸福になれると言って人々の信仰を受けていたことを知りこの大生部多を征伐したと『日本書記』に示されています。
このため、富士郡は河勝の支配下に入ることになり養蚕が盛んになったのではないでしょうか。また東平遺跡の常まれた8〜9世紀頃には、養蚕や絹織物が国をあげて行われている事から奈良時代、東平遺跡周辺の畑には桑が栽培され、養蚕が行われていたと,思われます。
- 写真あり -