建久(けんきゅう)4年(1193年)5月、源頼朝(みなもとのよりとも)は諸国の武将をひきいて、富士の裾野の井出(いで)付近の狩倉(かりくら)(鳥や獣を狩りする所)に移って来ました。その28日夜半、曽我(そが)兄弟は工藤祐経の館(くどうすけつねのやかた)に討入り、父河津(かわず)三郎の仇を討ちました。兄十郎祐成(じゅうろうすけなり)はその場で仁田忠常(にったのただつね)に討たれ、弟五郎時致(ごろうときむね)は捕えられ、翌29日処刑されたと伝えられています。厚原(あつわら)にある曽我寺には、曽我兄弟の墓があり、また近くに曽我八幡社もあります。
この曽我兄弟の話は、江戸町人の好みにあった『曽我狂言』を、江戸歌舞伎の初代市川団十郎が関東の荒事(あらごと)として創演(そうえん)し、にわかに有名になり、曽我八幡社も江戸や京都に出開帳(でかいちょう)をするようになりました。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 曽我兄弟絵馬